シン・短歌レッスン9
なんかやる気が出ない。そういう季節なんかね。正月疲れとか。ないけど。怠惰なだけであった。
塚本邦雄短歌
塚本邦雄の短歌も釈迢空と同じように、「うた」の理想世界はすでに滅びてしまったというのがあるのだ。神なき無神論の世界。それでもどこか否定神学的に神=歌を求める気持ちがある。
「神」は旧字の「神」だったところがミソ。パソコンの変換では出ないので単語登録する必要があるのだった。そこまでする必要があるのかと考えて一応塚本邦雄の短歌だからと考えて単語登録した。お前は神か(そいう偶像崇拝の対象になってしまった)。
この短歌のもう一つの特徴は二句切れであるということ。二句切れは短歌では切字を意識させることが出来る重要なテクニックであるという。どう凄いのかわからんが、やってみることだ。
模範十首
今日あたりで中条ふみ子終わりにしたいのだが、まだ画期的な歌が出てこないのだ。
切字は普通短歌では三句切れになるのだった。そうすると凡庸になってしまうのだが、ここでは朝鮮人を読むことで特異性がある。『暗契』のタイトル。
『北方画展』は展覧会の絵を短歌に読んだのだろう。
『葬ひ花』は「乳房喪失」の場面の短歌である。
「サンドリアン」《灰かぶり娘の意》「シンデレラ 」のフランス読み。中条ふみ子の本質は、けっこうセンチメンタルな人だと思う。
悲劇性を全面に読んでいる感じだが、当然と言えば当然なのか?
橋本治『失われた近代を求めて』
今読んでいるこの本は、興味深いことを言っている。古典の『源氏物語』や『枕草子』は当時の口語体であったと主張している。それは女官たちの言葉かな文字ということなんだが、当時の文語は漢文だったわけで、公用語とか男たちの文章は漢文で書かれていた。その後にかな文字が、歌など(公用語よりは私的な言葉として)に使われるようになり歌物語の世界になっていく。それは女たちの世界を描いているのだ。
その変化は近代文学で言文一致運動が翻訳語から当時の自由を求める青年たちが獲得したのと共通の言語運動であったとみるのが橋本治の古典理解だった。紀貫之がかな文字を使って紀行文(随筆=エッセイ)で描いたのも漢文では描けない世界の個人的独白であった。橋本治は唯円『愚管抄』を中世の決定的変化だと上げているが。紀貫之の方がわかりやすいような。
それが中世になると和漢混合文となって、『平家物語』のような語り物になっていく。そして古典と言われるものは、古い言葉の意味で「旧仮名遣い」と混乱した捉え方になっているという。古典は古い言葉というもので一括すれば文語とか口語とかの問題以前になぜ言葉が変化してきたか見えてくるはずだ。
例えば和漢混合文になって武士社会の台頭があったとか、江戸時代は饒舌文体が町人文化として出現したとか、その時代時代の変化が伺えるのだ。それを古典として一括してしまうが、学校で教える中心となるのは平安や中世の古典中心になるのだ。そこになんらかも意図があるのは間違いないだろう。
だから橋本治が当時のうたは口語だったというとき、それは桃尻語と重なっていくのである。まあ、橋本治はアカデミーの人じゃないので、そういう意見は黙殺されているのだが。
映画短歌
今日は『やまぶき』。この映画は「山吹」という日本古来の花を巡りながら日本の国際化という問題にも踏み込んでいた。
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