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表現とは何か

『俳句とは何か』山本健吉(角川ソフィア文庫)

俳句の特性を明快に示した画期的な俳句本質論「挨拶と滑稽」をはじめ、「子規と虚子」「女流俳句について」など、著者の代表的な俳論と俳句随想、ゆかりの深い六俳人の作品鑑賞を収録。初心者、ベテランを問わず、実作者が知りたい俳句の本質を、率直に繊細に語る。俳句を愛するすべての人におくる、本格俳句入門の書。
目次
挨拶と滑稽
俳句の方法
写生について
純粋俳句―写生から寓意へ
ディアローグの芸術
「かな」についての月並的考察
「や」についての考察
俳句の世界
座の文学
芭蕉と現代〔ほか〕

今日は既視の海さんに倣って、手紙形式で感想を書いてみようと思います。

はじめまして。

早いものでもう十月の風が木枯らしになっていくのかと少々焦りを感じています。それというもの俳句についてちっとも上達が見えない、それを何をもって上達というのかということもあって先日から山本健吉『俳句とは何か』を読んで「目から鱗」というのか、こういう慣用句はモノローグ的な俳句になっていくと書いてあり、俳句にするのは、対話として、新興俳句から伝統俳句の奥深さに頭が下がりますと書けばいいのか?これでは散文だけど俳句だと

十月の墓場晴れるや伝統俳句

字余りでした。まったく出来てないです。諧謔性の方は十を十字架に見立てて「晴れるや」は「ハレルヤ」の掛詞にしたのですが、気に入って貰えなかったでしょうか?

諧謔性はもともと好きな方なのかもしれないですが、それがなかなか俳句に行かせないのは何故なんだろう?と考えて、単純な話、対話相手がいないので、いつも一人遊びになってしまうのでした。

それで突然迷惑も承知の上で、手紙形式とさせて貰ったわけですが、はたしてこの手紙を受け取る人がいるのか?こういうのは投瓶通信とか言うのかなと検索したらツェランの「投壜通信」とか出てきました。漢字は「投壜通信」の方がいいですね。

話があっちこっちと錯綜するのは、そういう思考法だとおもうのですが、今回は読み手も意識しているのでテーマを「表現とは何か」にしたいと思います。そこから「俳句とは何か」も考えていけばいいのではということです。

それでとりあえず山本健吉『俳句とは何か』の感想を読書メーターに書いたものを上げます。

 山本健吉は伝統俳句を述べているのだと思うが、けっこう俳句作りには参考になる知識を得られるのだが、その根本のところは俳諧に戻れと言っているような気がする。山本健吉の理想とするのは芭蕉の発句(俳諧の最初の五七五)であり、ただそれが行き過ぎるとただ一人の世界に入ってしまう。子規の俳句は近代文学として西欧から自我というアイデンティティを持ってきて、そこに俳諧から自立した形の俳句とした。新興俳句やそれらから発展した人間探求派の俳句はモノローグであり、対話というものがなかった。
 そこに俳諧からの流れとして「滑稽」「挨拶」「即興」という文芸(文学ではない)としての俳句があるのではないか?それはダイアローグ(対話)の諧謔ということであり、モノローグ(告白)の象徴性(これは言って無かった)ではないということなのかと思った。俳句を文芸として内輪での楽しみとしてあるのか?それと文学として個人の表現としてあるのか考えさせられた。

とりあえずすぐに文章化したもので、その後に「シン・俳句レッスン」のコメントにそのヒントもあるのではないかと思いコメントもしました。

情句百物語さん、コメントありがとうございます。山本健吉『俳句とは何か』からだと思うのですが、今日読み終わったので後で整理してみようと思います。ひとつ言えるのは私はそれほど俳句にはこだわっていないのかもしれないです。私が一番に問題にするのは「表現とは何か」ということなのかもしれないです。その一つに俳句の作りやすさがあったと思うのですが、いろいろ俳句の楽しさを本で読むわりにはいまいち俳句が楽しめないのはなぜだろう?と考えて俳句の世界が内輪すぎるんじゃないのだろうか?と思っていたのですが、先日ウクライナ人の句集を読んで、俳句でもこういう人もいるのかと思い感動しました。彼女は戦争を読んでいたのですが、そこに季語もなく定形でもなかった(これは翻訳の問題があるかもしれない)。それでも感動したのは俳句ということより、表現としてなのかなと思ったのです。

ウクライナの句集はウラジスラバ・シモノバ『ウクライナ、地下壕から届いた俳句』。

戦争が季語の役割として言葉として成立すると言ったのは新興俳句の西東三鬼だと思います。川名大の著作で伝統俳句よりは新興俳句の方に興味を持ったのは、やはり桑原武夫の「第二芸術論」があり、文学者が大政翼賛で戦争協力をしたのではないか?という、それは短歌や俳句が自己を和としての場に奴隷のように従属するからではないかということが頭にあり、俳句や短歌に於ける結社や内輪的な座というものに疑問を感じるからであります。

しかし俳句の作りやすさや毎日日記のように書くことは何も制限をうけないわけで、そのような場をnoteで表現しているというか、それも表現活動の一環だとは思うのです。だから俳句から嫌われたいというよりも、俳句の方から嫌われているのではないかと思っているわけです。

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