表現とは何か
『俳句とは何か』山本健吉(角川ソフィア文庫)
今日は既視の海さんに倣って、手紙形式で感想を書いてみようと思います。
はじめまして。
早いものでもう十月の風が木枯らしになっていくのかと少々焦りを感じています。それというもの俳句についてちっとも上達が見えない、それを何をもって上達というのかということもあって先日から山本健吉『俳句とは何か』を読んで「目から鱗」というのか、こういう慣用句はモノローグ的な俳句になっていくと書いてあり、俳句にするのは、対話として、新興俳句から伝統俳句の奥深さに頭が下がりますと書けばいいのか?これでは散文だけど俳句だと
字余りでした。まったく出来てないです。諧謔性の方は十を十字架に見立てて「晴れるや」は「ハレルヤ」の掛詞にしたのですが、気に入って貰えなかったでしょうか?
諧謔性はもともと好きな方なのかもしれないですが、それがなかなか俳句に行かせないのは何故なんだろう?と考えて、単純な話、対話相手がいないので、いつも一人遊びになってしまうのでした。
それで突然迷惑も承知の上で、手紙形式とさせて貰ったわけですが、はたしてこの手紙を受け取る人がいるのか?こういうのは投瓶通信とか言うのかなと検索したらツェランの「投壜通信」とか出てきました。漢字は「投壜通信」の方がいいですね。
話があっちこっちと錯綜するのは、そういう思考法だとおもうのですが、今回は読み手も意識しているのでテーマを「表現とは何か」にしたいと思います。そこから「俳句とは何か」も考えていけばいいのではということです。
それでとりあえず山本健吉『俳句とは何か』の感想を読書メーターに書いたものを上げます。
とりあえずすぐに文章化したもので、その後に「シン・俳句レッスン」のコメントにそのヒントもあるのではないかと思いコメントもしました。
ウクライナの句集はウラジスラバ・シモノバ『ウクライナ、地下壕から届いた俳句』。
戦争が季語の役割として言葉として成立すると言ったのは新興俳句の西東三鬼だと思います。川名大の著作で伝統俳句よりは新興俳句の方に興味を持ったのは、やはり桑原武夫の「第二芸術論」があり、文学者が大政翼賛で戦争協力をしたのではないか?という、それは短歌や俳句が自己を和としての場に奴隷のように従属するからではないかということが頭にあり、俳句や短歌に於ける結社や内輪的な座というものに疑問を感じるからであります。
しかし俳句の作りやすさや毎日日記のように書くことは何も制限をうけないわけで、そのような場をnoteで表現しているというか、それも表現活動の一環だとは思うのです。だから俳句から嫌われたいというよりも、俳句の方から嫌われているのではないかと思っているわけです。
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