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シン・短歌レッス116

王朝百首


知るらめや霞の空をながめつつ花もにほはぬ春をなげくと                     中務

塚本邦雄『王朝百首』から。中務。

初めて聞く名前だが伊勢の娘だというから歌人としてはそうとうな人なのであろう。三十六歌仙の一人だった。その三十六歌仙を全部言えるわけがないが何か権威みたいなものを感じる。藤原公任選定だった。『光る君へ』で出てきたな。このぐらいの知識なのである。

ただ『百人一首』には載ってないでここで塚本が選定したのは、こだわりがあるのかなと。

ここに読まれているのは「暗い春」だった。「暗い春」というとヘンリー・ミラーの小説を思い出してしまうが、才能がありながら世になかなか芽が出ない、そんな人の「暗い春」なのである。暗いままではないのは後に三十六歌仙にも選ばれているのだし、華ある人生だったと思うのだが、今は暗い。

初句の反語から第四句の否定形に作者の性格が出ているが、技術論としては「がめつつはなにほはるをげくと」N音とH音がやわらかな印象であるという。その点は伊勢譲りの和歌の才能なのだろうか?

西行

目崎徳衛『西行』から「遁世の原因」。

西行の出家の原因はいろいろ言われているのだが、まず鳥羽院の北面の武士時代に突然人が死ぬので世が嫌になった説。

身を捨つる人はまことに捨つるかは 捨てぬ人こそ捨つるなりけれ  詠み人知らず

詠み人知らずにされているが、西行が若い時期の記念すべき作品であり、遁世する事実は含まれるが理由がないという。それは遁世した直後の歌では不安を述べているからだ。

すずか山うき世をよそにふりすてて いかになりゆくわが身なるらむ  西行

そして恋の痛手説。

思ひきや富士の高嶺に一夜ねて 雲の上なる月を見んとは  西行

西行の月の歌は手の届かない恋の相手だったようだ。それで月の歌をづらづら詠んでいるわけだった。藤原定家が『百人一首』に入れたのも恋の歌としてであったという。西行の恋歌は圧倒的に当時の歌壇では人気だったのだ。それを考えると恋の痛手説よりもむしろ恋歌歌人として一芸にすぐれていたのではないか?そしてここでは、芸術至上主義説を取っている。

数奇者という『百人一首』なら坊主めくりのような系統があり、そこの一群に西行も含まれて歌という道が何よりも勤めよりも家庭より重要であったとする。その過程で色恋はそこに含まれるということで、仏教を極めたいというのではなく芸術家として数奇者でありたいというのが真意のようだ。

それでも仏門に入るわけだから真似事ぐらいはしなくてはいけない。そこで元々頭のいい人だからけっこうな坊さんにもなって、あっちこっちからもお呼びがかかったということらしい。西行が憧れたのが能因法師で、当時は歌人坊主がトレンドだった時代のようである。

『詩歌と芸能の身体感覚』「短歌と浪花節」。芥川龍之介『文部省の仮名遣改定案について』を読んでいて国語となる過程で浪花節が排除されていく考察が興味深い。つまり七五調の口承的なものは呪術的なものとして言文一致の事実だけを記述する現代仮名遣いが推奨されていく。例えばその頃に弾圧されたお筆さきのを中山みき(天理教)などが弾圧されたのは七五調の繰り返しが人々の無意識に働きかける呪術として観られたからだという。それではというので、論理化させて宗教法人にしたという。そういうものを神道に取り込んでいくのだが。

当時の新聞でも朝日と東京日日新聞の記事の違いも朝日は言文一致は事実だけ記述した今の新聞と変わりがないが、東京日日新聞は情事の物語調で近松の浄瑠璃が当時三面記事だったというその系統を引き継いでいるのである。それは芝居の舞台のように異質な空間が犯罪の場所だと物語っているのであった。それは芥川の小説と同じである。表現技術の差はあるが古典の異世界を語るのと犯罪事件を語るのも異世界の物語だった。それは読んでいて、音を楽しむ東京日日新聞の記事と音楽性なんてまったく感じさせない客観描写の朝日新聞の記事なのである。浪花節が排除されていくのもその過程であるという。

つまり歌のような物語性は近代国家によって締め出されいくのだ。やがて締め出された歌の方が国家に擦り寄せて大政翼賛的になっていくのだ(それは一つの歌の生存戦略と見る考えもある)。

短歌や浪曲の批評性は排除されていくのだった。七五調の一揆を起こす「ええじゃないか」というような民謡性は排除され、お国の為にという民謡が推奨されていくのだった。

短歌の呪術性について考察したのが折口信夫だという。短歌に諧謔性(批評性)がないというのはそんなところなのか?ただ俳句との差異なんだと思っていたが。

現代短歌史『未来歌集』の青春

篠弘『現代短歌史Ⅱ前衛短歌の時代』を再び図書館から借りてきたので復活。前回までは学生短歌の合同歌会の中から新しい流れが出てきたというところまで。ただジャーナルリズムの前衛短歌が中条ふみ子や寺山修司を褒めやすのとは別にアララギ系の嫡子として『未来』を中心とした学生短歌の盛り上がりがあったとする。

しかしその指導者近藤芳美のエピゴーネンだと先輩歌人からは批判されていく。それは彼らの純粋性がキリスト教モチーフによるヒューマニズムに立脚したものであるナイーブさがあったからだとする。その中で近藤芳美エピゴーネンを克服する短歌も出てきた(そう批評されたからか?)のも事実であって岡野隆などは旧世代にはその違いがわからないかよく読みもしない印象批評だという。今もある学生短歌の内輪性とも繋がっているような気がする。指導者の枠を越えるのはなかなか難しいのではないか?むしろそうした批評が彼らがエピゴーネンからの脱却になったとする。

『短歌研究 2024年2月号』作品

実際に現代短歌の最前線を読んでみたいと思う。

「不忍池、〈アイアイの森〉」米川千嘉子

 上野「不忍池」という特異な場所を歌で読むことで日本という世界を描いているのか。動物園の歌から始まる三十首連歌。

全身に花色浴びしフラミンゴ足下雀は弾んでゐたり

桜の木の下に萌える若草をイメージしているよな。動物園の動物を景として歌っている。

汚れた角を木に当てじつとゐるクロサイよどうしていいかわからず

その前の句で絶滅危惧種のパネルとウクライナのゼレンスキーの歌があるので、クロサイをウクライナに喩えているのかもしれない。

不忍池(しのばず)は戦場のやうな土色と見てわたらずや紺の鵜のゆく

不忍池にある島を彼岸と見ているのか?かつての戦場の焼け野原を感じているのかもしれない。鵜は自身に重ねているような。

アイアイは〈知らない〉の意味 声あはせ歌つてゐたよ昭和の子ども

「戦争を知らない子供たち」のことだろう。

起きなさい逃げるのよと子を起こすこゑ夜毎夜毎に霧深くなる

戦時を幻視しているのか?

タマリンの黒白の毛をおもひつつ濡れたる髪を吹き上げてゐる

タマリンは猿の仲間、すでに家に帰って風呂入ってドライヤーで髪を乾かしているようだ。なんだったんだろう?

「青いひかりを借りて」荻原裕幸

ニューウェーブ系歌人。

す薔薇しいから薔か薇しいへとこの国が傾く夏の終わりのひかり

言葉から歌を作る人なのか?そういう短歌が流行っていると読んだ記憶がある。「薇しい」に素晴らしいという読みはないから当て字みたいなものか?むしろ「ばからしい」と読むのか?意味が通じる。

今池から千種にむかふひるさがり角をまがれば猫町がある

「今池」も「千種」も実在する土地の名か(名古屋だった)?「猫町」は朔太郎だろう。「猫町倶楽部」という読書サークルがあった。

七五書店に続いてちくさ正文館書店が閉じて揺れる向日葵

町の本屋さんが消えていくところに向日葵はウクライナの花のようだ。

夢のなかで夢を見てゐるややこしい夢にて妻と西瓜を齧る

西瓜を妻と食べることで現実を取り戻すのか?

二十五年を過ぎても妻に恋する秋晴れに青いひかりを借りて

これは虚構だろうと思うのは、今日芥川龍之介の『恋愛と夫婦愛とを混同しては不可ぬ』を読んだこともある。短歌は虚構性を歌うものだからな。

莫迦と言はれて嬉しい莫迦とさうでない莫迦がある冬隣の妻に

このへんはノロケのように読める。

令和のゴジラ映画に生きる夫婦的な二人の距離に露草は咲く

これは肯定しているんだろうな。ノロケの続きか?

鉄腕アトムならばなるほど国葬に反対されないのだね白菊

安倍元総理の国葬について言っているのだと思うが鉄腕アトムとは手塚治虫のことなのか?関係ない人にはどっちも関係ないと思うが。

遺影の父はいつも笑顔だ現実でもそんな晩年だつた山茶花

山茶花が散っていくイメージに悲しみが溢れているが、笑顔とは反対の現実。

街路樹から苦悶の声が漏れてゐる気がする十二月の風の午後

この歌は好きかもしれない。デコレーションされた街路樹はSMだと思っていたから。

夢の底から見えるひかりが見も知らぬ梅園である誰に目覚める

幻想なのかな。梅の幻想歌のように読める。けっこう花鳥風月なのかと思った。夏から初春の樹木(植物)を通した光の歌なのだろうか?光は幻影のようにも感じる。映画のシーンだな。

映画短歌作ろう。

映画短歌

神の道化師、フランチェスコ

本歌

令和のゴジラ映画に生きる夫婦的な二人の距離に露草は咲く

「露草は咲く」かな。「露草」は限定されるから「花が咲く」だな。

道化師に神は無くただ一人ゆく地球は廻り花が咲く  やどかり

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