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ラアラアと月に管を巻く中也かな

『月の文学館 ─月の人の一人とならむ』(ちくま文庫)

稲垣足穂のMoon Ridersの幻影、中井英夫の月蝕領主の狂気、瀬戸内寂聴が電車に揺られながら見た湖の月、川上弘美の「柔らかい月」、中原中也、花田清輝、多和田葉子、浅田次郎…夜空に浮かぶ美しい月は、密かにふるえる心を映す物語の揺籃だ。昭和・平成の作家たちが思いを筆に載せて描いた選りすぐりのムーン・ストーリー。思わず今宵は空を見上げてしまう珠玉の43篇がぎゅっとこの1冊に。

月俳句百句を詠もうとしてアイデア枯渇のために燃料投下という感じで読んでいた。その各短編のメモ書きと俳句を一瞬に削除していまったということもあり、とりあえず気なった作品の感想だけ。

一番好きだったのはやはり多和田葉子『鏡像』。月を抱いて食ってしまう僧侶とそれを見届け追従する少女の話。水面に写る月の「鏡像」から虚像世界へ。多和田葉子得意の言葉ずらしのマジック・リアリズム。この短編は『きつね月』にあったと知った。読んだことあったのに忘れていた。もう一度『きつね月』も読んでみたいかも。

川端康成『明月』で「中秋の明月」と書いてあるのが引っ掛かり、「中秋の名月」の間違いを周りの者が大先生だから訂正できずにそのままになっているかと思ったら「明月」という言い方もあったのだ。

そういう引掛け問題のような名月を出す川端康成が嫌いだ、と思ったら、永井荷風『町中の月』も「明月」になっていた。それは「中秋の名月」が中国から来た風習で、日本では十五夜の前の十三夜を愛でる風習がある。そのことを描いているのが太田治子『中秋の名月』。

十三夜を乙女に喩えて、「十三夜は中秋の名月(十五夜)前の姿が一番キレイ」とする。十五夜はすでに人妻であるということなんだそうだ。すでに満月であとは欠けていくばかり。ただ太田治子は、人妻になっても清らかな心を持った奥様もいるという、懐古趣味風な短編なのだが、このあたりに日本人の月を愛でるの意味合い的なものも含んでいるのかも。そうだ月経が月の物というのも関係があるのかもしれない。

武田泰淳『月光都市』は上海の近代化によって、路地裏ぐらいしか「中秋の名月」をやる風習が消えて行くとする、月が顧みられなくなった様子を描写している。その一つにキリスト教の布教があったとする。キリスト教では月を愛でないのか?なんとなく魔女的なイメージなんかね。

安部公房『月に飛んだノミの話』になるとアポロの月面到達の話とリンクさせている。

各作家による月の短編やら詩、エッセイなど。中井英夫『殺人者の憩いの家』はエドガー・アラン・ポーを手本にしたような推理小説だが、どんでん返しが見事だった。カフカ的世界を彷彿とさせる。

あと中原中也の言語感覚はやっぱ凄いなと認識した。月を見て「ラアラア」歌う酔っぱらいたちを描いた詩なのだが、中也が月を見て管巻いている姿が浮かび上がる。「ラアラア」のオノマトペ。中也の詩が読みたくなる。



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