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沖縄と米軍基地

辺見 庸,目取真俊『沖縄と国家』(角川新書)

なんでこんなに腹立たしい本なのだろう。バートルビーは目取真俊ではなく辺見庸だ。辺見庸が目取真俊に寄りかかる感じの本になっている不快さ。沖縄の基地闘争をしている行動する人と個人に拘り続けている辺見庸ではどうも立場が違ってしまう。辺見庸が根本的なところでバートルビーなのは「自同律の不快」という日本人に同化出来ない苛立たしさだろう。沖縄人として行動出来る目取真俊に対するやっかみのようなものを感じる。けれどもだから辺見庸がまだ言葉を書き続けるのなら読みたいと思うのかもしれない。捨てきれないものがまだあるのだ。

目取真俊の言葉の辛辣さ。

「そんなことをしている暇があったら、あなたは自腹を切って辺野古に来て、集会でもやっているときにトイレ送迎の運転手をしたり、裏方の仕事をしたほうがいいですよ。その方がずっと役に立ちますから」。

直接、辺見庸に言った言葉ではないが、その言葉に対してバートルビーにならざる得ないのは辺見庸の方なのだ。

目取真俊『希望』という作品の米兵の幼児殺しの犯人の暴力を辺見庸は肯定するけど目取真俊は否定はしないということの違い。殺る人は殺るけど目取真俊は別の方法を実践しているのだ。暴力じゃない暴力に対抗する道を。そこで齟齬が出て来る。組織に参加することも目取真俊は恐れない。そこに個があると。沖縄という存在を肯定できる人と日本という国家を肯定できない作家。

沖縄でなされている反基地闘争はそれまでのデモとは違い米軍基地のゲートを身体を張って閉鎖するという一つの成果を出した。そして辺野古でのデモも自動車などを使って搬入を阻止する。が、沖縄に対しての日本の部外者という意識は復帰後もある。もとは琉球という別の国だった。そうした差別構造が明らかになるのは沖縄県警ではなく本土の警視庁、県警、機動隊を派遣する。そこで「土人」発言がなされるわけだが、そこに差別意識が潜んでおり沖縄の身体を張った行動も国家権力の暴力によって排除されていく。

辺見庸の苛立ちはSEALDsの安保法案反対デモが身体を張ったものではなく警察の指示を仰ぐものだったという。国会のゲートを封鎖するぐらいの実力行使が出来ない今の日本の現状はあまりにも世界とはかけ離れいる。島を繋ぐシーレーン防衛は国体護持として思想を変えることがなかった日本の現政権の思惑であり、日本もアメリカの防波堤となるような属国としての卑屈さの現れである。様々なシーンでアメリカの尖兵としての位置を整えていきながら国内では権力強化が行われ、敵を作ることによって政権が支持される。(2017/09/04)

関連書籍

辺見庸『1★9★3★7(イクミナ)』

目取真俊『眼の奥の森』



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