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感情論が支配する世界

望むのは死刑ですか オウム“大執行”と私 【告白編】』(2023/ 日本)監督長塚洋

被害者側の葛藤。
加害者側の痛み。
語り始めた当事者たち

2018年7月、オウム真理教の元教祖ら13人の死刑が執行された。29人を死亡させ、6000人以上を負傷させた一連の事件の発端とも言えるのが、1989年の「坂本弁護士一家殺害事件」だ。この事件に発生当初から深く関わり、後に死刑囚となる加害者らとも向き合い続けた一人の弁護士がいる、殺された坂本堤の親しい同僚だった岡田尚である。岡田は、加害者たちが死刑に処されたことを機に、心に秘めてきた事件や死刑制度の存否への思いを語り始めた。弁護士としての死刑反対の信念と被害感情の間で今なお揺れ続ける岡田の痛切な声は、犯罪の悲劇と社会がどう向き合うべきかを私たちに考えさせる。

命を奪った者の命を奪う死刑。それは私たちの社会に現にある刑罰なのに、その在り方を話題にしようとすると「賛成か反対か」に意見が二極化し、かみ合った議論にはなりにくい。政府が5年ごとに行う世論調査では約8割もの人が「死刑はやむを得ない」との回答を選択しているが、自分の意見を直ちに決められるほど、私たちはこの究極の刑罰のことを知っているのだろうか。米国などと違い日本では、死刑執行の予定日時や死刑囚の最期の様子などといった死刑制度についての情報がほとんど公開されず、人々はその実態も当事者の受け止めもよく知らないまま、漠然と考えてはいないだろうか。

そんな社会にリアルな衝撃を与えたのが、2018年7月に立て続けに行われたオウム真理教の元死刑囚13人全員の「大量執行」だ。その衝撃の大きさは、直後のメディアによる世論調査で「死刑賛成」が一時的に6割を切ったことでもわかる。弁護士の岡田尚が複雑な胸中を語ったのは、その翌月に東京・渋谷で催された死刑制度を考えるトークイベントでのことだった。教祖だった元死刑囚・松本智津夫の弁護人など、事件や死刑囚らと直接向かい合ってきた3人が日替わりで登壇した。その1人が岡田だった。

オウム事件についてはここでも何冊か本を紹介したりして関心深いのだが、もう一つ「死刑制度」についてはまだ書くことはなかった。今回はこっちの方が興味深いような気がした。

オウム事件に関しては森達也の一連のドキュメンタリー『A1』から『A3』によって森達也と共感することが多かったのだが、一カルト集団が起こした事件というよりその背後にあるものが気になっていた。

その過程で森達也『死刑』という本も読んでいた。

なぜ死刑制度に反対するかというとそれが復讐法であり、冤罪も多い。そしてそれが国家のシステム化によってあらぬ方向へ向かうからと危惧するのと、実行させる人と実行する刑務官がいるからだ。このシステムの恐ろしさに気づかないのだ、それが仕事としてなされる時に、例えばアーレントの『エルサレムのアイヒマン――悪の陳腐さについての報告』に指摘されるように、それを仕事として大虐殺に関わってくる人もいる。

今回の映画を見ても一度に13人の死刑が一度に執行された。それは当然被告としてあるべき二審もなされずにだ。なぜそれほどこの死刑は行われたかを考えることはまずない。その中に被害者家族会の方もいたのだ。

死刑制度が行われているのは先進国といわれているのはアメリカの一部の州と日本だけであるという。あとは独裁者国家なのである。例えば日本人の心情として、森鴎外『阿部一族』などを読むと江戸の殉死の習慣などいまでは馬鹿らしいと思うのがほとんど人ではないか?その中で敵討ちも行われていた。その敵討ちを国家が肩代わりすることで明治政府は軍国主義へとなだれ込んでいく。当たり前なのは国家による殺人の正当性を認めてしまっからだ。そうなるとやられたらやりかえせという復讐法の感情的問題は国家よりも国民側にも受けることになる(この映画でも被害者感情という勝手に被害者の感情を理解したかのように装う言論界)。それが当たり前のように死刑制度に賛成(中にはわからないとする現状維持も入れて)する層が9割で明確に反対を唱えるのは一割ぐらいだという。

その問題について考えてこなかったのは何故かということなのである。国会議員は選挙のためにそういうことは言えないとする。だから有志の人がこういう問題を話し続ける映画が撮られたのだが………..。

考えてみれば復讐法を認めてしまうと国家を超えてあいつが許せないと成敗する輩が出てくる。オウム真理教の坂本弁護士一家殺害事件の根っこにあったのもこの成敗するという感情論だ。そのために国家システムでは感情論にならないように法があり審議されうるのであるが………..。

そして、この映画を見て明らかにされたことで、神奈川県警が弁護士一家殺害の事件の現場検証をしながら、それを拉致と認識せずに失踪と判断したのだ。その背景は宗教に深く関わりたくなかった警察組織があった。そこで思うのだが、これは宗教が背後にあることと関係してないかということである。例えば当時は権力と統一教会の繋がりはまだ明確ではなかったが、そういう繋がりがあったならば警察が宗教法人に尻込みするのも理解出来る。またその刑事部長が出世して行ったということである。

例えばまじかな安倍元総理のテロ事件もその問題が大きく浮上してくるのは、権力と宗教の関係と復讐法というカルマを述べる宗教とも繋がっているように思える。神による復讐という思考法が、そもそも戦争の原因で、自分の善以外に許せない、それ以外は悪人であり犯罪者であると決めつけてしまうのだ(ウクライナ侵攻もその論理だった、逆の立場そうであるならばますます戦争は拡大していくだろう)。それは国家よりも国民が思い込まされている観念以外の何者でもないのだ。

なぜ二審が受けられずに13人もの人が死刑にされたのか?そこに感情が存在するのは何故なのか?またその反対側にも感情論が出てくるのは何故なのか?そういうことを感情論ではなく理知的に対話したいと映画なのだが、国家の裏側を見せられたような。

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