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シン・現代詩レッスン15

テキストは寺山修司『戦後詩―ユリシーズの不在』は前回と同じ。前回作った「空回りするモルモット」(仮題)は安永稔和の詩「鳥」に似ているな。めちゃくちゃ否定されていた。彼は書くことによって、鳥になったつもりだがその飛行行為は、ことごとく「飛びそこねた詩人」であると言われてる。人生に意味があると思っているからいけないのだろうか?別の世界(想像世界)が見えているとも言っている。そこまで辿り着ければいいのか?

大空に縛られた存在。
動くことを強いられた
技術者。
世界の外から
悪意の手によって投げ込まれた
磔だ。

「鳥」  安永稔和

鳥よ。
おまえを落とすには
ひとつの石。
それで充分だった。
鳥よ。おまえを葬るには
ひとにぎりの石。
それで充分だった。
(略)
鳥よ。
おまえも
それからぼくも
たしか世界のなかの
ひとつの世界だが、
世界から
ひとつの世界を消すことが
実に容易であるとは。

あっけなく落とされた
おまえと
あっけなく消されるだろう
ぼくとが
土の下で
土の上で
閉じた目
ともすれば閉じようとする目
押し開いて
めくばせしあって
このいいがたく
いまわしい
世界の罠をたしかめよう。

「記号の冒険家」の自己形成の真摯さを感じるという。それは「罠」という詩さえも罠だと感じている自分だということなのか?

モルモットよ
お前を飼い殺すには
ひとつのゲージ
それで充分だった。
逃げても逃げても周り続ける
空なる空車。

モルモットよ
確かにゲージの外は自由に満ちている
しかしそこも世界に囲われた
囚われの世界だ

閉じた目で迷走するがいい。
開かれた扉も罠であることを
逃げ場はないのだろうか?
それはお前がまだモルモットを見続ける者だから

世界の外から
悪魔の手によって投げ込まれた
空車だ

しかし空車は世界の外へと走り出すとき
お前を乗せて行くだろうか

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