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中国革命の基礎は日本で築かれた

陳舜臣『中国の歴史 近・現代篇(一)』 (講談社文庫/2007)

中国近代史の精華、待望の文庫化 第一巻
黄龍振わず(義和団前後)/落日に立つ(革命前夜)
列強の蚕食(さんしょく)に苦しむ清朝末期、西太后は紫禁城を追われ、公車上書を著した康有為(こうゆうい)は清朝改革をめざす。
列強の蚕食に苦しむ清国では、甲午の役(日清戦争)の敗戦で不満が爆発。保皇派の康有為は公車上書を著し、立憲君主制を提唱する。義和団事変で8ヵ国連合軍が紫禁城に乱入し、権勢を誇った西太后も光緒帝(こうしょてい)と西安に逃れた。王朝打倒を目指す孫文ら若き革命家たちは集結を始める。中国近代史の精華〈全二巻〉。

大岡昇平『成城だより』で中国の現代史がわかりやすく面白い本として紹介されていたから読んでみた。最初は中国人の名前やら地名やら日本語の読み方がわからない漢字に苦労させられた。同じ漢字文化と言っても、読みは違うのだし外来語としてカタカナ表記でいいのではと思った。漢字だと間違った読みで理解する。漢字の思い込みは、そのことが中国を理解出来ない理由なのではないか。

1995年の日清戦争敗北から1905年の孫文が「中国同盟会」設立まで。10年を624ページかけて説明する。1年60ページぐらいになる。革命は一日してならず、紆余曲折して、孫文が日本で中国革命の基盤を作った「中国同盟会」設立が「辛亥革命」の始まりです(この一巻では、「辛亥革命」まで行きません。)

日清戦争の敗北によって満州族の清国は漢族支配を改革する必要があると感じるのです(支配される漢民族側の改革)。その最大の癌は清の西太后なのです(孫が幼いので院制を引いていて、そのまま権力を手放さず光緒帝がいるのに権力は西太后のまま)。改革派は光緒帝を立てて、康有為が「戊戌政変」が起こすが失敗。ますます清(西太后)の圧政に今度は「義和団事変」が起きる。これは宗教的な側面が強い民族運動で清よりも外国人排斥運動となって行きます。清は鎮圧できずに(むしろ外国人排斥で同調していた部分もあり)それで八カ国連合の中国進出のきっかけを作ってしまった。八カ国連合国(オーストリア=ハンガリー帝国、フランス、ドイツ、イタリア、日本、ロシア、イギリス、アメリカ)の天津侵攻を許した。西太后は北京から逃げ出す。そのときの各国の軍隊は略奪OKみたいな酷い話で殺された自国民の報復となったのです。とくにドイツは外交官が殺されたから仕返しがひどかったと。

戦争というのは、そういうものなんだろうと考えた方がいいです。正義な戦争は権力側が勝ったときに言われる。敗戦国は略奪され、人民は乱暴される。それで士気を煽る。それを止めると兵士の不満が募るという。イギリスはインドの傭兵で、ほとんどそういう略奪を餌にしていたとか。ほとんどの国がそういうことをやっていたのだと思います。日本もそういう戦争を見習ってしまったのだと思う。報復の連鎖反応、民族紛争は特に酷いと思うのは「映像の世紀」を見れば歴史が語っています。どんな綺麗事も敗戦国にはないのです。そして、中国はその舞台でもあったのです。

日露戦争によって日本の近代化を世界に示していた。中国は清の時代で、清の満州族から、漢民族の中国へという民族主義的なものがあった。汎アジア主義というものが当初はあったと思います。欧米支配からアジアを解放すると夢見たのはアジアの人々でした。しかし、それがすぐにまやかしだと知るのです。日本も欧米列強と変わらない支配国なのだと。

それでも清の支配から逃れるために日本へ中国の留学生が大勢来日しました。ちょうど科挙が形骸化し先進的な若者は海外の思想を学ぼうとした。魯迅もその一人で、日本の維新が蘭学を学んだことから医学を学ぶ。『藤野先生』に描かれた日本の近代化。魯迅に対して差別意識が強い留学体験の中で人として接してくれたのが大学の藤野先生だった。藤野先生が授業の合間に見せてくれた幻燈機による映像で、ソ連のスパイとされて処刑される中国人を日本人の学生と一緒に笑っている中国人の同胞に嫌気がさして教室を出る。それは中国へ帰ってからも同じだった。魯迅は肉体を治すよりも、心を直さなければと文学の世界へ入っていくのです。

魯人と同じように孫文も医学を学んでいます。医者は一人の命しか救えないけど革命は大勢の命を救えると書いてありました。孫文も最初に医学を学び、西洋思想に目覚める。政治ですね。コロナ禍の日本の現状を見れば、政治が医学の上にたち、各国の感染対策の違いが出ています。そういう社会だったのでしょう。

そして日本側で孫文を援助する人も出てくる宮崎滔天。孫文の支持者。日本は台湾関係から清国の崩壊を望んでいたから革命勢力の孫文を支持する勢力もあったのです(北一輝も孫文の中国同盟会に加わっています)。しかし孫文は、基本日本人を信用していないが宮崎滔天は信用していた。海防・塞防論争。海防(台湾に進出する日本を警戒)。塞防は、ウイグルに侵攻するロシアを警戒。ヤクブ・ベクの乱(新疆ウイグル自治区の反乱)イスラム教徒。左宗棠によって鎮圧。袁世凱と李鴻章は保守内洋務派。

保守改革派が挫折していく中で、孫文の共和主義的三民主義が支持を集めていきます。それは日本に留学していた中国人の力も大きかったというか、その基礎を作ったのが日本の留学生たちでした。

陳舜臣『中国の歴史 近・現代篇(二)』

恵州蜂起、蘇報事件など蜂起は幾度も潰(つい)えたが、革命の花秋瑾(しゅうきん)ら留学生が先導し、湖南の黄興(こうこう)、浙江(せっこう)の章炳麟(しょうへいりん)らを核として革命の火勢は増した。孫文は三民主義を唱え、大同の夢を語る。光緒帝(こうしょてい)、西太后が崩じ、武昌(ぶしょう)での蜂起成功以後「光復(こうふく)」の燎火は全土に。民国臨時政府は産声を上げた。中国近代史の精華〈全二巻〉。

西太后が生存している間は反権力闘争はことごとく潰されて、「義和団事変」で北京から逃げ出すも八カ国連合軍はむしろ革命勢力を潰してしまった。これが西太后に取ってラッキーだったのかとにかく清王朝は存続することになる。革命勢力が潰されるのは密告や軍隊の経験不足、清王朝の軍部がとりわけ優秀ではないのだが袁世凱の狡猾さ(戊戌の政変で西太后側についたり辛亥革命後も政治的に上手く立ち回って生き延びた)によって革命勢力は減退していく。西太后側からの記述が少ないのでどうして生き延びたかはよくわからない。革命勢力の未熟さなのか?

結局、西太后の死後はもう清王朝の崩壊しかないのだけれど、一番の改革派の光緒帝より一日だけ長生きしたというのも凄い。光緒帝は暗殺だというが(この本を読む限りそうなのだろう)、それ以後も暫くは膠着状態で革命が起きる感じもなかった。よく孫文が辛亥革命を成功させたような教科書的な説明だが、孫文はむしろ後方支援的で金を集めていた。政治的駆け引きに長けていたのもあるが主に国外を飛び回って資金援助や軍隊教育(日本の士官学校出が多い)に費やしていた。

その中で革命の華といえば、何と言っても「秋瑾」だろう。秋瑾(しゅうきん)は裕福な家庭に生まれた子女(纏足もされている)で、清王朝に支配されている漢民族に我慢ならず革命運動に参加していく。日本にも留学して、そこで魯迅にも出会っていた(「薬」という小説のモデルにもなっているという)。男勝りの過激な性格ゆえに無謀なこともするのだが、本質的なところで詩人(ロマン主義的であったから革命運動にのめり込んだのかも)で数多くの詩も残して、最後は革命運動の中で散っていく(映画化もされた)。死刑だったこともあって大衆の心情を掴んだのだ。

秋瑾の犠牲があって革命の発火点となったというのが大きいと思う。そして彼女の詩が大きな意味を持つのだ。彼女は言葉の人だから死刑になって詩が残された。それは革命運動の導火線となったのだ。しかしそれでも革命運動は潰されていく。密告されたり軍隊的な未熟さだったり。もう革命なんて無理だろうと思ったところで、「辛亥革命」の発端となった「武昌蜂起」が起きる。きっかけは爆弾製造所の爆発事故から革命組織がどうせ捕まって死ぬよりは抵抗して死ぬべきだと破れかぶれで起こした蜂起だった。

そうなると元々軍部の基盤が弱い清の軍隊は、革命派と王党派に二分され下部組織ほど革命派に傾いていたから上部の幹部は逃げ出したという。幹部が自殺したり暗殺されたりして、辛亥革命が起きるが、ここでも清朝側の漢民族を率いていた袁世凱が出てくる。孫文は袁世凱による変革でもいいと思うのだが、結局そのことが袁世凱を生き延びさせて中国が分裂してしまうことになるのだ。孫文は「三民主義」の理想を掲げるが基本のところは漢民族の儒教思想がありその変奏としてキリスト教的な博愛主義があると思うのだが、結局は海外の資本家頼みなのだ。

孫文の革命政府(中華民国)は誕生したがそれも臨時政府だった。袁世凱が漢民族の軍隊に影響力があったことで、次第に国内が二分されてやがて袁世凱の政権が誕生することになる。

陳舜臣のこの本は日本との関連性も詳しく描かれているのでそのへんでも興味を惹かれた。あと魯迅の記述も多い。革命家ではないけど魯迅の立ち位置が陳舜臣に近いのかなと思った。

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