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シン・俳句レッスン56

この時期は花が少ないな。そんな中で山茶花が咲き始めた。俳句をするようになってから椿と山茶花の区別は付くようになったから、まあ俳句に感謝かな。

山茶花や恋せよ乙女椿まで

椿は椿姫のイメージで、山茶花は庶民的?

俳句いまむかし  

『俳句いまむかし』坪内稔典。過去の名句と現代俳句の名句の読み比べ。

湯豆腐や無駄話から離陸せず  児玉硝子

湯豆腐だったら会話が弾むのか?蟹だと黙り込むけど。湯豆腐がぐちゃぐちゃになっている感じがいいという。やっぱ一人湯豆腐だよな。湯豆腐をただ見つめて食う。

晩酌はひとり湯豆腐白一色  宿仮

「白」は吐く息も湯気も一色というような。没我の境地。

あつあつの豆腐来にけりしぐれけり  小西来山

作者は「しぐれ」を読んだのだが、坪内稔典は湯豆腐だとする。

石畳鳴らす落葉も横浜よ  斎藤すみれ

年中横浜に出ているがこういう句は作れなかった。「横浜よ」がハマトラな感じ。横浜と言ってもいろいろあるから。これは元町あたりか?

落葉無心に降るやチエホフ読む窓に  藤沢周平

藤沢周平も俳句雑誌に投稿していたという。小説化以前は病気療養をしながら俳句を作っていたとか。

野沢菜漬く初雪ほどに塩振つて  上野一考

台所俳句だな。今も読まれ続ける。ただ野沢菜漬けるなんて地方色が出る。「初雪ほど」とあるから雪深い地方とか。

洗われて白菜の尻陽に揃う  楠本憲吉

これも漬物用に日に干している情景だろうか?白菜は普及したのは明治の終わりでまだ近代の新しい野菜だったとか。今だったらズッキーニとか。

新野菜ネットで検索レンジでチン  宿仮

川柳だな。

雪日和たたみ鰯の目の碧き  長谷川櫂

雪日和が季語で真っ白い雪に鰯の碧い目。空の碧を映しているのか?芥川の句のオマージュだろうか?

凩や目刺しに残る海の色   芥川龍之介

芥川は青とは言ってないのだった。「残る」というのが凄いな。「目刺し」は魚の目刺しもあるが、詠み手の目に刺してくる凩があるような。これは名句。

ひたひたと生きてとぷりと海鼠かな   本村弘一

海鼠は食べたことはないのだが、中国で高級食材として日本の海鼠が密漁されているという記事をみたことがある。あと最初に海鼠をたべたやつを表彰したいとか?ここでは食べるよりも見た目の海鼠だという。「ひたひた」と「とぷり」のオノマトペ。特に後の方の「とぷり」はなかなかいい表現である。夢見る海鼠だな。

憂きことを海月に語る海鼠かな  黒柳召波

これは凄い好きだ。ファンタジー俳句だな。海鼠が語るのは憂きことだろうな。ポジティブなことは語らないだろうな。特に海月相手には。黒柳召波は蕪村の仲間だという。蕪村に「思ふ事いわぬさまなる海鼠かな」があるという。この句を踏まえているのではあるまいかという。

門口に綿虫に遭ふうれしけれ  星野恒彦

「綿虫」は雪虫。実際に見たことがないのでわからない。虫を愛するのは俳句の伝統だという。都会で冬の虫というとゴキブリぐらいしかいないか。冬の蚊とか。

澄みとほる天に大綿うまれをり  加藤楸邨

「大綿」も雪虫だという。綿虫は俳人には人気の虫だそうだ。

朝焼けの美しかりし干大根  石田郷子

俳句は地方性(郷土性)なんだよな。何気ない風景にこういう
情景を読み込めるは強い感じがする。

子を負ふて大根干し居る女かな  正岡子規

子守がいた時代だという。今は保育所とか託児所だった。そういえば朝よく園児を連れた散歩に出会う。なんか最近のガキはませていて頭をひっぱたきなるときがある。危ないおじさんだな。

寝かされて白葱は裸である  木村和也

野菜にエロさを感じるのが俳句。白葱までいくと上級か。大根ぐらいでは凡人だった。他に「白葱を買う真っ白に身構える」は女性の句。

葱買うて枯れ木の中を帰りけり  与謝野蕪村

青い葱と枯れ木の色の配置が見事だという。蕪村だから絵画的な印象を受けるのか。私は葱だけ買って帰ったのかということだった。葱って長いから持ち帰るのが案外難しいんだよな。蕪村は九条葱だという。

歯を抜いて怖いものなし冬景色  冨士眞奈美

女優の冨士眞奈美だった。上手いな。『細腕繁盛記』の「加代!おみゃーの言うとおりにゃさせにゃーで!」と呼ぶ声が聞こえそう。

帆かけ舟あれや堅田の冬景色  室井其角

「堅田の落雁(秋)」は近江八景で其角は帆かけ舟の冬景色を新たに発見したという。

横綱も付人も息白きかな  渡辺松男

「息白し」が季語でみんな吐く息が白いという句。当たり前のようだが。横綱だと普通の人の二倍はありそう。付人と合わせると4倍ぐらいになるか?

心みせまじくもの云へば息白し  橋本多佳子

この言い回しは独創的で面白い。もう一句「泣きしあとわが白息の豊かなる」があるという。多佳子の白い息は内なる私だという。橋本多佳子チェック。

山口誓子に師事したのか。

山口誓子

『山口誓子自選自解』から。

祭あはれ奇術をとめを恋ひ焦がれ

『黄旗』

途中で削除してしまったのでやり直し。山口誓子は相性が悪いな。少年時代の回想。「祭あはれ」はその前にもう一句。

祭あはれ覗きの眼鏡曇るさへ

『黄旗』

今はなかなか見られない(地方に行けばあるのかな?)祭の形態。今は他に遊ぶものが年中あるから、こういうものは消えていく定めにあるのだろう。「祭あはれ」の思い出は型抜きぐらいか?

祭あはれ型抜き完成 終わってた  宿仮

完成させたことはないのだが、多分時間をかければこんな感じになるのかも。型抜き祭。

夏草に汽罐車の車輪来て止る

『黄旗』

山口誓子はこの句のイメージが強い。無機質な映像的俳句。でも実際はなんか違っていた。

高原の裸身青垣山を見よ 

『黄旗』

かなりナルシストな句だ。歌垣という伝統を踏まえているような。

螇蚸をあはれと放つ掌を見たり

『黄旗』

螇蚸は「はたはた」。この時代の人は難しい漢字を使い過ぎる。

葭原に真の雀のゐてなきつ

『黄旗』

葭原は吉原か。女郎屋ではなく高原の意味のようだ。そこにいる雀を葭原雀という。俳句の季語にもなっていた。ヨシキリの別称という説。これは普通の雀が鳴いているという句だという。理屈っぽいわりには大して感動はしないのは雀でもヨシキリでも真のというのは偽物がいるみたいで、それは人間の都合だろうと思うのだ。これも理屈っぽいか。真とか使う人を信用できない。

もうこのぐらいでいいかな。山口誓子はいまいちだった。

最後に山口誓子の俳句の作り方が掲載されていた。ああと思った感動を俳句にする。ただ俳句も表現だから技術的なことは必要だ。五七五の定形は一番短い詩だと思っている。二物衝動で季語と事物を衝突させて感動を表現する。自由律は二物衝動にはならない一物仕立てだが、それでは表現が不十分だとするのか?俳句は二物衝動ということだという。

ETV特集『続・五味太郎はいかが?』

NHK俳句の表紙絵を描いている人だが、いいことを言ったのでメモ。俳句は自由でいいはずなのに課題を与えられて選者から評価を求める。ひとりで決められない。ひとりで俳句を詠めない。俺から始まるオリジナルティがあるということ。自由でいることの怖さ。

生物をめぐる俳句

夏石番矢『超早わかり現代俳句マニュアル』から「生物をめぐる俳句」

共感を対象としての動物(植物)

猿が笑ったしかたなく笑った僕ら  坪内稔典
拠らばすぐに器となる猫大切に   摂津幸彦
はくれんの花に打ち身のありしあと 長谷川櫂
金雀枝が黄を吐き崖を吐きに吐く  増田ますみ

人間との呼応

母死にし居間より見ゆる花吹雪  和田耕三郎
晩祷の退屈に蟹が出てきたよ 宇多喜代子

晩祷」はばんとうという読み。キリスト教の晩の祈祷会。

分身

きりぎりす不在ののちにもうつむきぬ  摂津幸彦
空漠や一本の葦微動する        大西泰世

「きりぎりす」の句は、不在を知った作者がキリギリスに仮託して詠んだ句。

動物の分身を動作として詠むことを富澤赤黄男は推奨した。

爛々と虎の眼に降る落葉  富澤赤黄男

その影響を受けた金子兜太も

わが湖(うみ)あり日陰真暗な虎があり  金子兜太

神秘的存在

ちろろ鳴く声の谷間に浄土見ゆ  保坂敏子
天に雨の降り残しなし鬼あざみ  沢好摩

これらの動植物は、日本人の古代アニミズム信仰が反映している。それを標榜する永田耕衣の句。

白桃を見て白桃の居泣くなり  永田耕衣
初茄子や人から遠い時を行く  永田耕衣

無機物

絹ずれの春砂山を越ゆる砂  沢好摩
ガラス器の藍色深く恋ひにけり  林桂

NHK俳句

村上鞆彦「落葉」。

子育て俳句

悴める掌をつつみやり諭しけり  西村和子

けりは現在形だが勢いがある言い方。子育て俳句は、子供の視線に立って見せられている感覚が大事。今日の格言、「俳句はよそ見」。

<兼題>村上鞆彦さん「悴(かじか)む」、高野ムツオさん「扉」
~12月4日(月) 午後1時 締め切り~



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