ニッポンバンザイとは言えない人の詠嘆表現は?
『短歌 2022年3月号』
『短歌 2022年7月号』の読書欄を読んで、啄木の記事(『啄木ごっこ』松村正直)が金田一京助のことだと知って読みたくなったのだ。記事は金田一京助『石川啄木』を踏まえたようで新しいことは書いてないような。
それ以外にも、「詠嘆の可能性」や「落合直文」という知らない歌人の興味もあった。
相変わらず作品はそれほど興味を引かないのだが、そんな中で、渡辺礼比子「姫柚子」が面白かった。生活短歌だが、「ダークダックス」とか「明星グラビア」とかの懐かしさと共に惚けの始まりという可笑しさに共感する。同時代性の生活短歌が一番共感するものなのか?時事短歌は少し過去の号なので、それほど惹きつけられる歌はなかった。この雑誌は全体的に高齢化雑誌だから、それほど革新的な歌もない。
【実作特集】詠嘆の可能性
短歌が万葉の和歌の時代から歌い手の感情をものに寄せ、それに人々が共感してゆくという詠嘆のうたとして存在し続けたのは事実であろう。しかし、それはあまりにも歌い手の感情に同調してしまうことの恐怖を戦時中に感じた世代の中で詩人の小野十三郎が「奴隷の韻律」として諌めたのは、短歌や俳句ばかりではなく、それが他の詩や散文の中にまで浸透してゆくことで、より強力な同調性の言論を生み出してゆく危機感なのであった。その詠嘆調を現代短歌はどう克服したのだろうか?そうした、危険を現在の歌人たちは感じているのだろうか?折しもワールドカップで世間は一色になってゆく。その時に歌人たちは素直に詠嘆の日本勝利の歌を詠めるのだろうか?(寺井龍哉「詠嘆は日々に輝く」を読んで)
現代歌人たちの、特に口語における詠嘆表現について。
「か」は「かな」と同じような詠嘆の助詞。疑問の意味を持ちながら詠嘆する同一性に対する疑問を示す。
見ることが叶わない現実世界への呼びかけの「よ」も現代の詠嘆として使用される。
掛詞的に叙景を読んだあとに口語(蝉鳴りに反しているので同調してはいない詠み手であるが同調を求めている)で受ける詠嘆表現。
文語の「まじ」は打ち消しの推量だが、二回目の「まじ」は口語の反語詠嘆。感傷的な詠嘆は否定するが、そこに客観的なもう一人の自分がいる。
言葉を重ねることで、詠嘆の度合いがますが、対象者との距離感の歌なのだ。
「かよ」の効用。演劇的機能。
【特別企画】生誕160年 落合直文――近代短歌の源流から未来へ
落合直文は初めて知った歌人。正岡子規と同時代であり、「明星」で与謝野鉄幹や晶子に影響を与えたようだ。国語辞書の編集者としても有名だったらしい。短歌は古典調だと思うが、ひとつだけ気になったのは円環的表現という、正岡子規は直線的な表現で最初から読めば意味が汲み取れるが、円環的な表現は言葉通りに読んで意味がつかめず、最後まで読んでまた最初に戻って意味を見出すという歌だという。
正岡子規は最後まで読まなければ歌意が通らないとして、「あわ雪」を最初に示すべきだと主張した。こういう円環的な短歌のテクニックは古今和歌集以降に多いという。万葉調は一直線に歌われるのだ。正岡子規が好んだのもそのような歌だった。それで斎藤茂吉とか釈迢空は、走ってゆく歌や山の中を奥深く歩いて行くイメージが多いのかなと思ったり。ずんずん進んで立ち止まらないイメージなのかな。円環的なイメージの短歌。
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