稲刈もすれ違う人、隙間風
昨日は涼しいといより寒かった。裸で寝ていたこともあったのだが、もう裸ではいられない季節になっていた。暑さ寒さも彼岸までとはよく言ったものだ。稲刈りもいつの間に終わっていた。なんかそうなると自分だけが置いてきぼりを喰ったような気持ちになってきてしまう。秋風の隙間風。
昨日はいろいろ家でやろうと思ったがやはり出来ず。J.M.クッツェー『エリザベス・コステロ』を半分ぐらい。全部読もうと思ったがちょっと無理だった。それ以上に石牟礼道子『春の城』がまったく読めなかった。『エリザベス・コステロ』にかかり切っていたわけでもなかった。
AmazonFireで楽天koboが読めないのだった。以前ダウンロードした電子書籍が開けない。電子書籍ってこれがあるからな。新しいアプリだと読めるかどうか不安なんだよな。パソコンの方で読めばいいのか。いや図書館から借りてきた方が早いかもしれない。今日は図書館にいくぞ。
仕方がないのでKindleで山本健吉『俳句とは何か』を読み始めた。こちらは伝統俳句の指南書。山本健吉は批評はするけど自らは俳句は作らないのだ。このへんがいまいち駄目なんだと思う。批評家とは他人の表現を批評するだけで、自ら表現しない。まあ、批評がそうだと言えばそうなのかもしれないが。だったら人の褌で相撲を取るなということだった。新興俳句へのいちゃもんもそれが文学を目指すということだった。俳句はそんな大したもんではなく、ただ言葉による認識というものだと言う。それが三原則「滑稽」「挨拶」「即興」という形でなりたつ。詩のような詠嘆は短歌にまかせて俳句は言い切り。体言止めだという。そして俳句は二回繰り返すことで一回目を確認するというから調べも必要ないという論調だった。一回目では情景が浮かんでこない。二回口承で繰り返すことで情景が現れてくるというのだ。
確かに松尾芭蕉のこの句はそうかもしれないが、例えば言葉の意味がわからない俳句は駄目なのか?と言いたくなってくる。駄目でもいいのだが、今はやたらと人が使わない言葉を使って詠むのが褒められるみたいな傾向だよな。それは文学を目指しているからではないのか?
まあ文学という言葉も山本健吉とは違うのかもしれない。自分は言葉で表現したいと思うものは文学と思うのだが。詩は詠嘆というのはあるかな。だから俳句も詠嘆でいいと思っていた。あと山本健吉が俳句で何より大事なのは切れだという。切れと体言止め
こんなもんか。「通れる」じゃないな。もう少し文学的に。
でも「や」は詠嘆の切れ字とあったような。山本健吉は説明がつかんぞ!
これがいいか?読点の方がいいかな?
読点は数には入らないのかな?俳句による読点。
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