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シン・短歌レッス34

赤花三椏の花。みつまたは紙幣になる和紙の原料だった。赤花三椏はどうなんだろう?赤い和紙が出来るのか?『源氏物語』に手紙を出す時の和紙に色付きがあって紫とか。今日の一句。

三椏の文に託して淡い恋

赤花三椏だと三角関係っぽいけど普通の三椏はほんのり黄色でいい色なのだ。

でも中国から輸入されたのは戦国時代とあるから『源氏物語』の色付きの和紙は違うのだろうな。

塚原邦雄短歌


中井英夫『黒衣の短歌史』

1970年三島が自決し、盟友岡井隆が失踪した後にただ一人残された塚本邦雄が歌集『星餐圖』を出したが鎮魂歌のごとく一つの時代の終わりを告げたようだったと。塚本と月はよく似合うような。

模範三首

今日も穂村弘X山田航『世界中が夕焼け』から穂村弘の短歌三首。

月光よ 明智に化けて微笑めば明智夫人が微笑み返す  『ラインマーカーズ』(2003)
ハロー 夜 ハロー 静かな霜柱。ハロー カープヌードルの海老たち。  『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』(2001)
「酔っているの?あたしが誰かわかってる?」「ブーフーウーのウーじゃないかな」  『シンジケート』(1990)

主に掲載されていたのは「指してごらん、なんでも教えるよ、それは冷蔵庫冷たい箱」なんだが、前の歌で一連の歌は『怪人二十面相』をモチーフにしたものらしい。塚本が神話や哲学的な言葉で衒学させるとしたら穂村弘はポップな文学や漫画で衒学させる。それはサブカルチャー的ということなのだろう。「冷蔵庫」の歌はエヴァンゲリオンのカヲル君が碇シンジに語りかけるイメージだそうである。ほかに萩尾望都の同性愛イメージ。月光の歌は三角関係の歌で、明智小五郎と怪人二十面相と明智夫人ということだった。先に上げた塚本の歌も三角関係っぽいが置いてきぼりにされた孤独感を歌っているのかもしれない。ライバルに出会うと力を発揮するタイプが小林少年や碇シンジなのかな?明智小五郎=小林少年なのだが。与謝野晶子を前にした与謝野鉄幹という面白い譬えをしている。普段は駄目鉄幹だけど。
「カップヌードル」の歌は釋迢空の句読点法と一時空け。句跨りのリズムで規定の五七五七七のリズムを崩しているのだが31文字には収まっている。わりと定形なのだった。モチーフ的には佐々木幸綱の短歌だという。

さらば象さらば抹香鯨たち酔いて歌えど日はたかきかも

佐々木幸綱が天皇(太陽)だとしたら穂村弘は月(光源氏)なのだ。だからモテる。カップヌードルは宇宙船のCMのイメージだったんだ。

会話体は以前、発話者は消えて言葉だけが残るイメージ(言霊か?)とか言っていた。上句と下句にきっちり分けられるそれが一首の中で一体となっている歌だ。「ブーフーウー」はNHKのぬいぐるみ劇だとか。高橋源一郎がコミュニケーション不全に陥ったときにTVアニメのキャラで会話させたら出来たというような。ぬいぐるみに話しかける人が多くなった1990年代なのだ。そして彼らは消えていく。会話だけが残っているというわけだった。ただ当時のサブカルで通じる人にだけ通じる世界ということだった。今ではまったく通じない。塚本のギリシア神話が通じないように。このへんが難しいのだ。ドラえもんは共感の世代があるけど入れない人もいる。

穂村弘をやるとあれもこれも言いたくなって時間がかかるな。それだけ穂村弘にはある部分共感(シンパシー)を感じる部分はあるのだ。

俳句レッスン

今日も堀本裕樹『十七音の海』から十首。

蟇(ひきがえる)誰かものいへ声かぎり  加藤楸邨
滝の上に水現れて落ちにけり  後藤夜半
谺(こだま)して山ほととぎすほしいまゝ  杉田久女
蝉時雨は担送車に追ひつけず  石野秀野
奥への道後れゆく安けさよ  石田波郷
恋猫の恋する猫で押し通す  永田耕衣
葱坊主どこをふり向きても故郷  寺山修司
海鳥の胸のちからの風光る  柳下良尾
万愚節(ばんぐうせつ)に恋うちあけしあはれさよ  安住敦
鞦韆は漕ぐべし愛は奪うべし  三橋鷹女

加藤楸邨は声がでかい気がする。この句は戦時に蟇になれずに声を出せなかった世相を皮肉ったものだという。でも誰かに託している限り駄目だと思う。蟇は必要ないのだ。雨蛙ほどでもそれぞれが声を上げねばと思う。
後藤夜半の句は好きかもしれない。何気ない状態を読みながらなんか意味深なものを感じる。それがなんなのかわからんが。作者は能楽師だった。

「谺して」を使ったことで後の欲しいままと繋がっていくのだろう。音韻的にもいい感じだった。杉田久女は高浜虚子から除名されたという。松本清張『菊枕』を読んでみたい。

蝉時雨の句はごちゃごちゃしている感じだがそれが「蝉時雨」の騒がしさを表現したのだろう。「担送車」だがこれは緊急患者を運びだすタンカのことだった。それがわかるのとわからないとでは随分違うな。まあ解説を読むまでわからなかったのだが。これは母である作者が追いすがる娘を見て描いた句だという。そして、38歳で亡くなるのだ。そういう話を聞いてしまうとぐっとくるのだった。作品論ではなくて作者論としてだよな。
石田波郷の句はこれだけ読んでもわからん。作者は結核療養患者でこの日退院して、堀口君(大學?)散歩したときの俳句だった。境涯俳句というものだった。

第一章の「共感」するはここまでだった。共感できない俳句もあったが、共感というと俳句そのものよりも作者の好き嫌いになるかと思う。作家論になっていくんだよな。

第二章「季語」の豊かさを知る

永田耕衣はよく名前見るけどよく知らなかった。女性俳人だと思ったら男だった。あまり惹かれないかもしれない。
寺山修司はわかりやすいくて寺山修司なんだよな。葱坊主の平凡さに「どこをふり向きても」の否定的な言い回し、それが「故郷」とくれば寺山だった。
柳下良尾の句はいいなあと思ったが名前を調べても経歴がわからなかった。「風光る」が春の季語だった。モダンだよな。
万愚節(ばんぐうせつ)はエイプリルフールのことだった。その意味がわかると句の意味もわかるけど大した意味でもなかった。物珍しい季語だから使ったんだろうと。
四Tの鷹女。これは好きかな。「鞦韆(しゅうせん)」がブランコだって分かればそれほど難しくはないのだが、ブランコが行ったり来たりする様が恋愛模様のようだし、奪うべしの力強い言葉。鷹女らしいと俳号から思う。

映画短歌

最近見た中では『エンパイア・オブ・ライト』が良かったのだが、似た映画で『オマージュ』にしよう。

銀幕のフィルムの隙間
微笑みの
オバアの頃の聖霊がいる

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