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シン・短歌レッス64

今日の一句

ピンクの紫陽花。土壌がアルカリ性だとピンクになるそうだが、種類によっても酸性の影響を受けにくい紫陽花はピンクになるらしい。アナベルという種類。大江健三郎に『美しいアナベル・リイ』という小説があるが何か関係があるのだろうか?正式タイトルは『﨟たしアナベル・リイ 総毛立ちつ身まかりつ』「﨟たし(ろうたし)」が読めないし古文みたいな?調べたらアナベルの俳句はあった。

アナベルの白き光や梅雨陽射

白いアナベルの俳句はあったが、ピンクは難しいのか?アナベルはアメリカ紫陽花という種類だった。今日の一句。

アナベルや﨟たし(ろうたし)の花青に染まらず

ピンクの感じを出したいのだが。

アナベルや青に染まらず頬染めて

アナベルは白い紫陽花のことのようだ。ピンクは紫陽花でいいのかも。

紫陽花や青に染まらず頬染めて

これで十分だな。

「うたの日」

お題は「晴れ」だった。今日の「百人一首」は、

「身をつくし」は「澪つくし」の掛詞。「わびぬれば」我が悩みたいな、「わぶ」が悩む。全体的に雨の恋の歌なんだろうな。

わびぬれば紫陽花見つめ難波なる陽がさし変わる紫陽花の色

これでいいか?「うたの日」が終わったから映画を観に行く。♡2つに♪5つだった。過去最高だな。自分的には本歌取りというよりも真似っ子短歌になってしまったとおもったんだけど。紫陽花が今的で良かったのか。

現代俳句(高野素十)

高柳克弘『究極の俳句』という本を借りたのだが1月に読んでいた。全然覚えがないのは否定的だったからか。

序章の「言葉を再定義する」の「というと言えども」という俳句に名句が多いという。今日はそれを見ていこう。川名大『現代俳句上』。高野素十の句。

虚子が認める4Sだった。他に水原秋桜子・山口誓子・阿波野青畝。この4人を見分けられるぐらいにはなりたいな。
素十は対象に写生の目を鋭く注ぎ非情即物の簡潔な文体であるという。

風吹いて蝶々迅く飛びにけり
方丈の大疵より春の蝶
夕霰枝にあたりて白さかな
づかづかと来て踊子にささいける
ばらばらに飛んで向こうへ初鴉

高野素十

蝶はゆっくり飛ぶものだが、風が吹くことで速くなる。「迅く」の漢字も早そうだ。先程の言葉を当てはめると「蝶と言えども速く飛ぶ」という再定義となる。

「方丈の大疵」がよくわからないな。龍安寺の石庭での句。「大疵」とは?「虎の子渡し」という石庭での形らしい。

ここまで理解して、やっと「春の蝶」がその静寂さと突き破るイメージなのがわかる。素十は蝶に驚きと重厚さを見つけたのだった。

「夕霰枝」がわからない。「夕霰(ゆうあられ)」で切れるんだ。枝に当たって当たりが白くなっているのだ。霰の白さを捉えて詠んだ句であるというが、平凡だよな。

「づかづか」のオノマトペが効いているのか。踊子には話かけないけど「づかづか」と話しかける爺がいるということか。ここでの踊子は、盆踊りだという。闖入者がその場の空気をぶち壊すことを詠んだという。

「初鴉」は元日の早朝に鳴く目出度いものとされるというが、今はそんなことは聞いたことがなかった。それがばらばらに飛ぶというので目出度さを解体する句だという。鴉も迷惑なことだな。

次は芝不器男。26歳で夭折した天才俳人のようだ。的確で端正な俳句表現だという。基本的な写生句なのか?

永き日のにはとりは柵を超えけり
人入って門のこりたる暮春かな
白藤や揺りやみしかばうすみどり
麦車馬におくれて動き出ず
あなたなる夜雨の葛のあなたかな

芝不器男

「にはとり」が柵を超えることが、にわとり「と言えども」に当たるのだろう。これは便利な判定法だな。スローモーションの映像という。ただにわとりは今は都会ではイメージしにくいと思うが。

「人入って」の写し字みたいな感じがいいのか。「門のこりたる」がよくわからん。「門残りたる」ということか。「門凝りたる」かと思っていた。ちょっとカフカ的か。

これも「揺りやみしかば」がよくわからん。白藤が揺れているのを見ろよということか、それが「うすみどり」とは?風に揺れて白が新緑の緑と重なって見えるということか。前の句が網膜に残るというモンタージュの手法。

麦車の重さが表現されているのか。よっこらしょと動き出す感じ。

「あなたなる」と「あなたかな」の音韻なのはわかるが意味がわからん。「あなた」があちらの意味で最初の「あなた」から後の「あなた」へ通り過ぎる間に「夜雨の葛」があるのだった。これは使えるかもしれない。

白く咲く紫陽花の色青になり

難しい。名詞にならん。「あなた」がいいのか?

あなたなる紫陽花の青あなたかな

青が濃く感じられたら成功。

日曜はNHK俳句。「朝顔」投稿。

在原業平の和歌


『古今集・恋』

寝ぬる夜の夢をはかなみまどろめばいやはかなにもなにまさるかな  在原業平

夢現なのだが後朝の後だという。逢瀬を追体験しているというそんな夢か現かなら覚めないほうがいいだろう。「はかなみ」は「はかない」と「かなしみ」を合せた語。それをニ度繰り返す。こういう場合、最初と二度めは意味的に違うものだ。最初は後朝の後の現実で、ニ度目は夢の中だから夢の方がまさっているという。

『平成歌合 新古今和歌集百番』

今日は式子内親王五番と和泉式部五番。和泉式部は和泉式部日記の古典講義を聞いたからなんとなく和歌も覚えているかもしれないが、式子内親王は初めてだった。読み方もよくわからん。二通りあるようだが。

(歌合三十三番)
山深み春とも知らぬ松の戸にたえだえかかる雪の玉水
春の雨しづく円(つぶ)らに蠟梅の枝の蕾と列並(つらを)みてゐる

出家した後の歌だろうか。孤独を詠んでいるのだろうけど左は「松の戸」は掛詞の待つが含むから逢瀬の欲望がある。右の方が「蠟梅」という蝋燭の火のようで出家後の和歌と見た。右が式子内親王の和歌で、こっちが勝ち。違った。「待つ」は春を待つの意味だそうだ。正比古「蠟梅」を詠むなんて上手すぎる。

(歌合三十四番)
ながめつるけふは昔になりぬるとも軒端の梅はわれを忘るな
春立てば思ひおこせと梅の花昔の風のいまあらなくに

左は「飛梅伝説」を感じるがそれを感じさせて引っ掛け問題かもしれない。右の方が情緒はあるような感じがする。左四季内親王で右の勝ち。当たった。でもやっぱ正比古の和歌は上手いな。左も菅原道真の本歌取りだという。

東風吹かばにほひおこせよ梅の花主なしとて春を忘るな

左は梅に忘れるなと詠っているが右は思い出される辛さを詠っているという。「あらなく」は心も「荒ら鳴く」という感じなのか?やっぱ上手い。

(歌合三十五番)
八重にほうふ軒端の桜うつろひぬ風より先に問う人もがな八重桜うつろふ末にいざなはれ見えぬ風にぞ心急(せ)かるる

左は前の梅の花と同じだな。そんなに梅も桜も植えてあるのだろうか?これは正比古だな。右は正比古の前の歌に似ているが、引っ掛け問題だろう。右が四季内親王で右の勝ち。

外れた。これは出家前の歌だった。惟明親王との相聞歌になっていた。けっこう際どい歌だ。

(惟明親王返し)
つらきかなうつろふまでに八重桜とへともいでは過ぐる心は

『新古今・春下』

(歌合三十六番)
恋しさはいつとしなけれどたちばなのにほふ朝(あした)は思ひかねつも
帰り来ぬ昔を今と思ひ寝の夢の枕にひほふたちばな

「たちばな」の匂いは共通。左は後朝の歌か?右は橘によって昔を思い出している。だとすると右は女性で式子内親王で左が正比古。どちらも決めてに欠けると思うのはたちばなの匂いが強すぎるのかも。だいたい推測は合っていた。橘は昔の恋を想い出す歌として有名なのだと。

五月待つ花橘の香をかげば昔の人の袖の香ぞする  詠み人知らず

『古今集・夏』

(歌合三十七番)
宵の間にさても寝(い)ぬべき月ならば山の端(は)近きものは思はじ
眺むまじ思へど月に眺められ明けの空はといざなはれゆく

月の歌。左は部屋からの月だから女性だろう。右は月に眺めれている後朝の朝ならば男の可能性が高い。よって左が式子内親王で右は正比古。読み通り。だいぶ読めるようになった。勝ち負けは左が勝ちでいいか。

式子内親王は三勝二敗。まあまあか。初めてにしては上出来。

和泉式部は情熱的な恋のエキスパートという感じか。一応、ネットで調べておく。

実際は研究熱心な学術肌の歌人だったようだ。その歌に嫉妬して良からぬ噂が立ったのだろう。紫式部とか。

(歌合三十八番)
置くと見し露もありけりはかなくて消えにし人をたとへむ
露の身と消えにし人をはかなみて消(け)ぬることなきわが袖の露

露の歌左は露を眺めての歌で、右は露のように消えた人を思って袖にも露がという上手いな。こういう上手い歌は正比古のような気がする。ストレートに詠んだのは左だよな。左和泉式部、で左の勝ち。右はクドすぎるような。これは娘を亡くした時の歌だった。だから右はクドいということはないのだが正比古の歌だった。やっぱ上手い。

本歌取りについて「同事」を避けるのは定家でも難しかったと言っている。正比古はだいたい『新古今集』を本歌として詠んでいるようだ。

(歌合三十九番)
跡をだに草のはつかに見てしかな結ぶばかりのほどならずとも
ふみかよふ小泥(こひぢ)の春浅く結ぶにまだしき方生(かたお)ひの草

草の歌。難しい。「跡をだに」とは意味がわからん。右は草を踏んだら浅く結ぶほどの片思いだったという歌か?右の方が上手いとは思うがこれは男歌のような気がする。左も草を踏んだけど結ぶほどではないという同じような意味だった。テクニック的に右の方は優れているようだが掛詞が和歌の天才ぽいので和泉式部で勝ち。やっぱ右は正比古だった。上手いんだよな。『新古今集』でもそんなにテクニックをひけからすような歌はないのか?定家ぐらいか?草を結ぶというのは契の比喩だという。踏みは文の掛詞だった。「跡をだに」は「ふみをだに」と読むようだ。

かしこには文をだにといとほしく思し出でて夕つ方ぞありける

『源氏物語・末摘花』

(歌合四十番)
櫻だに咲かねば散らぬものなるを君恨むなよ春の夜の風
枕だに知らねばいはじ見しままに君語るなよ春の夜の夢

左は自身を櫻に例えて夜の風が男なんだが、これは和泉式部が自身を櫻というのは引っ掛けだと思う。右は春の夢だから、こっちの方が乙女チックかな。でも歌としては左は上手いかも。右和泉式部で正比古の勝ち。当たった。左はそもそも男の歌だった。古今和歌集の伊勢の歌が本歌であるようだ。

知るといへば枕だにせで寝しものを塵ならぬ名のそらに立つらむ  伊勢

『古今集・恋三』

(歌合四十一番)
今朝はしも嘆きもすらむいたづらに春の夜のひと夜夢をだに見で
春の夜のひと夜の語らひと惜しみ夢見ぬ夜を今朝こそくゆれ

左は今朝見た夢で嘆いていてるそれは春の夢なのにという意か。右は昨夜の語らいが現実としてあってまた夢を見て語り合いたい。右は男の歌のようだから正比古。左和泉式部。勝負はどっちも好きでもないので分け。当たり。もう正比古の歌は読めるぞ。でも歌意は違った。その前に詞書があったのだ。「よもすがら物語して帰り侍りける人の、今朝のいとど物思はしきよ申しつかしたりけるに」。すでに物語った後の夢のことだった。

(歌合四十二番)
たらちねのいさめしものをつれづれとながむるをだに問ふ人もなし
鏡葉の椿にふるふ春の日をつれづれながむひとり居の朝

左はたらちねは母の枕詞だから母の諌めを思い浮かべて問う人もなしか。右は椿の葉っぱを眺めてひとり居る朝ということか?眺めて一人でいる状態だが、左は母はすでに亡くなっていることのような。でも左が続くような。引っ掛け問題かな?右は和泉式部である必要もないだと思うのだが。左が和泉式部。で左の勝ち。当たり。左の本歌は

たらちねの親のいさめしうたた寝は物思ふ時のわざにぞありける  詠み人しらず

『拾遺集・恋四』


松は待つとの掛詞。そこにさみだれの音は乱れを断ち切るという意味が込めれらているのだろうな。これは正比古のテクニックのような気がする。分かりやすいかな。左俊成で右の勝ち。当たり。「と」の音韻が続くのも未練を表しているとか、ノックの音か?正比古テクニシャンすぎる。『新古今集』の特徴として本歌取り、三句切れ、体言止めがあるという。

左難しすぎ「いはめる」の漢字が出せなかった。左は初句切れ右の方が三句切れかな。体言止めはないな。右は俊成でわざとわからない難解歌を作るのは正比古だろう。右の勝ちだな。左は十の言葉のはじめがすべて母音だと。そんなことするから難解歌になるんだ。右は「立ち帰り」と「波」が縁語。

崖の水仙は絵的鮮やかなんだが右の地味さも捨てがたい。右は塩作りの情景かな。わびしさを好む俊成と見た。で右の勝ち。水仙の歌は綺麗すぎるかな。当たり。正比古の歌が読めてきたか?

4勝1敗。けっこう当たってきた。

山頭火の自由律

今日は川名大『現代俳句上』からの山頭火。

山頭火の俳句の特徴は歩く視点から自己や自然が捉えられており、その生涯は決意と挫折の繰り返しだった。生活即俳句の心境俳句だが、俳句様式としてはマンネリズムか?

分け入っても分け入っても青い山
鴉啼いてわたしも一人
へうへうとして水を味わう
どうしようもないわたしが歩いている
うしろすがたのしぐれてゆくか
鉄鉢の中へも霰
父によう似た声が出てくる旅はかなしい
あるけばかっこういそげばかっこう
うどん供えて、母よ、わたくしもいただきまする
窓開けて窓いっぱいの春

最初の「分け入っても」が決意、次の「分け入っても」は挫折、そして自然に委ねる自己。山頭火の代表する自由律。リフレインによる音律は山頭火がひたすら歩くことで音律の詩を生み出したことである。

放哉に捧げた句。放哉が独居孤独なのに対して、山頭火は放哉の句に唱和していく。

行乞放浪の途中の水の癒やし。山頭火は自然の中に癒やしを求める。その最たるものは水だ。その一方で酒に溺れた。

私は水の如く湧き、水の如く流れ、水の如く詠ひたい。

『扉の言葉』

「どうしようもない」は本心であったような。山頭火も煩悩を抱え続けたのだ。放浪の乞食僧として達観したような人怖に思えるが、酒に溺れ、あるときは女を買う破戒僧なのである。だから煩悩を消すためにあるき続けるのかもしれない。

「うしろすがた」は山頭火で一番好きな句だが、それさえも煩悩を捨てされない「自嘲」の姿であるという。山頭火は自己否定の自由律で、放哉は自己肯定の自由律なのかもしれない。

「霰(あられ)」の句も好きだった。托鉢だけではなく笠や法衣にも一面霰が跳ね返る。そういえば霰の短歌があったような。一面、白い霰だらけなのも単調の歌ではなく長調の感じがする。しかし山頭火の自句自解では煩悩を抜けきれない自分を鞭打つ天(自然)と詠んでいるのだ。さすがにこれでは息苦しい。

その癒やしが「かっこう」だったのかもしれない。煩悩を消すために歩け歩けのリフレイン。

山頭火の父は家庭崩壊を作った人で、父の放蕩によって母は自殺したのだ。その血縁を呪い続けなければならないのは父殺しの文学なのか?エディプス・コンプレックスから逃れるための放浪かもしれない。

放哉が「心太」なら山頭火は「うどん」だった。ただそれは母に供えるうどんなのだ。この自由律は珍しく句読点がある。詞書に「自殺せる母の四ー七年忌」とある。母の四十七回忌なのだ。けっこう執念深いかもしれない。そのぐらい山頭火の煩悩は深いのだろう。句読点は位牌に合掌する山頭火の姿であるという。位牌持ち歩いていたのか?

これを明るい句だと思ってはいけない。「俺には窓はなかったので」という教師をしていた親友を尋ねて宿舎の光景だそうである。冷たい風が漂ってきそうである。

本歌取り映画短歌

今日のお題。『怪物』

『百人一首』

満月を待ち出でながむともととも月影照らすもののけばかり

だんだんやることばかり多くて長くなる。

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