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大洋ホエールズ時代の不倫小説

『荒地の恋』ねじめ正一 (文春文庫)

親友の妻と恋に落ち、彼らの地獄は始まった

53歳の男が親友の妻と恋に落ちる。田村隆一、北村太郎ら戦後の詩人の群像を描ききった傑作長篇小説。中央公論文芸賞受賞作!

WOWOWでオリジナル・ドラマ『荒地の恋』を観て興味を持って図書館で単行本を借りた。ドラマとの違いは登場人物名が実名なのである。すべてかどうかはわからないが「荒地」の詩人名はそうであるみたい。田村隆一とか嫌な奴に描かれているのに関係者からクレームとか来ないのだろうか?

最初に北村の住まいが日吉の団地で懐かしい(神奈川へ越してきて最初に引っ越したのが日吉だった)と思ったら、田村の妻の車で送ってもらう住まいが港南区になっていた。すでに一軒家なのである(庭付き)。貧しいと言ってもバブル時代だったのかな。そう言えばこのころ(80年代)不倫ドラマ『金曜日の妻たち』が流行っていた。

北村太郎の妻が夫の浮気で心の病になるのは、島尾敏雄『死の棘』を思い出させるが描写はセリフが多くあっさりしている。ドラマでは富田靖子の熱演もあって、もう少しドロドロ描写かと思っていたがそうでもなかった。このへんが大衆小説なのかな。とにかくセリフが多い(読みやすさはあるが)。

ドラマとほとんど同じなのだが詩人が実名と詩が出ているのがいい。北村太郎は、章のプロローグの詩は、小説のドラマを暗示している。詩人たちの詩と散文的な通俗小説部分の乖離が面白い。まあ詩人ってダメ人間なのだ。

そう思うと田村隆一もそれほどの悪人とは思えなくなる。彼の詩がちょっといいから。言葉に騙されているのか?詩人はそういう人なのか?たぶん後者なのだと思う。

古代の濁り酒は
米を口中にふくみ乙女の唾液で発酵させたそうだ
晩秋初冬
(略)
われらの詩は神の唾液か
悪魔の唾液か
大量殺戮の時代に生まれあわせたわれらの詩には

乙女の唾液はもったいない
何處へ行く我らの死

(「何處へ行く我らの詩」田村隆一『水半球』より引用)

北村太郎が仕事を止めて家を出てから創作意欲が湧いてきたというのだが、私も仕事を止めてから創作欲が出てきた。北村太郎が不倫したのは、そのきっかけでしか過ぎない。

田村の妻明子が北村太郎と関係を持ったのは、セックスを必要としていたからだ。明子のモデルは、田村和子で名前を変えてあるのだ。実際に抗議が来たとか。そこは男目線で描いてしまったのかも。

ドラマと違って北村太郎は、ただのおんな好きなだけなんじゃないか?と思えてきた。明子との関係が悪くなる(明子が鬱病ということもあるのだが)と新しい女阿子と知り合う。そこがドラマとはちがって(ドラマは豊悦のイメージでだいぶ北村太郎が神格化されていた。)どこにでもいる中年男のように思える。まあ、詩人とて人間だからそういうことなんだろう。

田村隆一と逆転したような印象を受けてしまうのは、田村隆一のダメさ加減があまり書かれていないからだろうか?酒に逃げるのも中桐雅夫の田村隆一宛てたエッセイの言葉「人生痛苦多し」の言葉で相殺されたような感じだ。痛苦のドラマなんだったのだ。松重が上手すぎたのか?

鮎川信夫もドラマの方が良かった。ドラマはそこがクライマックスだったよな。『荒地』の時代が終焉していく。小説では北村太郎の死で終わっていく。彼が主役なんで仕方がないのだが、最後の阿子とのぐだぐだがイメージダウンだった。さらに阿子の回想で終わるのだから、阿子がこの物語を書いたという感じである。ドラマの娘の優有子と立場が入れ替わっている。娘との関係、組だち(友だちの家族版で父と娘、母と息子という組をいう)関係が全面に出ていたと思うのだが。

それは詩人が家族の中では暮らしていけない父親としては失格だったが詩人としては尊敬できるという娘の視線があったのだ。小説では不倫ドラマになっている。というか恋愛ドラマでもいいんだけど、その分北村太郎が軽薄になったというか。

明子を病者として扱ってしまったこと、田村隆一も北村太郎も同類の人間なのに、北村太郎だけが幸福感に包まれる感じが大衆小説なのかと。エンディングはハッピーエンディング(死で持って終わっているが阿子に看取れられる)。

この小説で「荒地」がどういうものだったのか、興味を引くよりもやはり詩人の不倫ドラマとしての小説になってしまったような。WOWOWのドラマの方が「荒地」の詩人を描いていたかな(イメージだけど)。

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