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三者三様のフェミニズム読書会(女子会?)

『男流文学論』上野千鶴子 , 小倉千加子, 富岡多恵子 (ちくま文庫)

吉行淳之介、島尾敏雄、谷崎潤一郎、小島信夫、村上春樹、三島由紀夫ら、6人の「男流」作家の作品とそれらをめぐる評論を、当世“札付き”の関西女3人が、バッタバッタと叩き斬る! 刊行当初から話題騒然となり、「痛快!よくぞいってくれた。胸がスッとした。」「こんなものは文芸論じゃないっ!」など、賛否両論、すさまじい論議を呼び起こしたエポックメーキングな鼎談。面白さ保証付。

女性三人の鼎談を「かしまし娘」に例えているのは分かりやすい。長女の歌江を富岡多恵子、次女の照江が上野千鶴子、三女の花江が小倉千加子。もっとも今の人には「かしまし娘」は通じないと思うが。小倉千加子の世代の漫才コンビだった。

それは小倉千加子の謙遜もあるのかもしれない。長女と次女が侃々諤々やりあってどっち付かずの三女ということをあとがきで言っているのだが、どうして一番クールな感じがした。富岡多恵子は文学者であるから個人的な感性が先に立つのだ。それは戦後世代の女性の身の振り方とかドライに捉えられない一面がある。それに対して社会学のふたりはかなりドライに6人の「男流」作家をやり込めている。ただ上野千鶴子も世代的に親世代には甘いかもしれないと思ったのは江藤淳の『成熟と喪失』で母性ということに対してはドライになりきれない。そこが小倉千加子との最大の違いか。

むしろ学者である二人の世代間の違い(4年しか違わないのだが一世代違うような印象を受ける)に富岡多恵子は文学者の立場から調停するような役割だったような。小倉千加子は戦後生まれの現代っ子という感じなのだ。

この鼎談の前提条件として江藤淳・伊藤整・安岡正太郎の鼎談があるのだが文壇の大御所と呼ばれる作家が文学を論じて妻をまったく従属した人格として扱うということに対しての疑問から始まっている。女はすべからくそうであるというような。その反動として魔女が出てくる。聖女(妻)と魔女(娼婦)という都合のいい男の主体の一元化があるのだ。

それは対称物である女を物として扱う態度であろう。その男性中心主義の主観から反旗を突きつけたのが上野千鶴子という位置づけだったが、彼女も江藤淳『成熟と喪失』で涙するのである。そこに上野千鶴子の「成熟」という社会観念が今の地位まで(東大名誉教授まで上り詰めた位置にあるのではと感じた)さらにプライベートではまともに結婚して、個人の行為と社会的立場を分けている学者としての地位は一つの権威としてなりはしないか?そこがドライに考えれば甘いような気がする。富岡多恵子は文学者としてもっと個人寄りの感性で発言するが、上野千鶴子は社会通念としての発言なのかと思う。

そこでさらにドライに突き詰めていくと小倉千加子になるのだが、彼女が吉行淳之介を読めないと言ったのは面白かった。大江健三郎は読めて面白いと言うのだ。それは大江健三郎の観念は合理主義的なのだが、吉行淳之介は家父長制にどっぷり浸かっている感性の文学だから。

総うじて吉行淳之介は立場が悪い。それは生まれながらにそういう特権を得る位置にいたからだ(父は大スターでは母は美容院の経営者NHK朝ドラ『あぐり』のモデル)。特権階級なのにサラリーマンを平然と書いて娼婦との愛ついて語る。その金は何処から出ているのかとリアリティのなさや庶民の生活とは別の高等遊民なのだ。

島尾敏雄『死の棘』は妻である島尾ミホとセットで家父長制の中で語られる。その中で島生ミホに好意的な感情を持つ上野千鶴子と小倉千加子の論争になるのは、島生ミホの中にある女性性を見るのが上野千鶴子であり、ミホにある権力性を見るのが小倉千加子だろうか?ここで仲介役なのが富岡多恵子なのだが彼女の感性は島生ミホとは相容れぬものなのだ。そこで男の物語森鴎外『舞姫』のポスト『舞姫』というところで落ち着く。梯久美子『狂うひと ──「死の棘」の妻・島尾ミホ』を読むと狂わずにいられない背景があるのだが、そのことによって関係性が逆転していまう作家と妻の在り方がスリリングなような感じを受けていたのだが。ミホを奄美に置き去りにしたら、『舞姫』になって奄美では幸せに一生を送っていたとか。

谷崎潤一郎も上野千鶴子と小倉千加子は意見が食い違う。最初は上野千鶴子の合理的な読みに対して文学の立場から富岡多恵子が多少擁護する感じだったのが小倉千加子はむしろ谷崎好きなように感じられた。

小島信夫は上野千鶴子の江藤淳『成熟と喪失』がキーポイントとなる。富岡は戦後日本における女性の位置を文学として捉えているように思える。上野千鶴子はそこに「成熟」というポイントがある。つまり親世代の社会性を理解してしまう。それがなければ生きていけなかったのだと。その点でいつまでも「成熟」がない小倉千加子なんだが。合理的思考と言えば合理性があると思うのだ。だから上野千鶴子が見せる親世代に対しての赦しの気持ちが、許せない小倉千加子と感性的に嫌だと思ってしまう富岡多恵子なんではないかと思う。面白いのは伊藤整の話題から佐川ちかの話になって、しきりに富岡が佐川ちかが不遇な詩人だったというところか?上野千鶴子が富岡多恵子の「カワイソー教」だと批判しているのだが、ここはそうドライになれない富岡多恵子の文学者としての感性なのだと思う。「私はカワイソーだと思う、あんたはアホだと思う」という富岡と上野のやり取りは文学と社会学の違いか?

問題の村上春樹は総スカン状態か?小倉千加子は吉行淳之介と同じ匂いがするという。上野千鶴子が今風な男性作家だと褒めている。少女漫画的世界。富岡多恵子の文体論は興味深い。会話だけのシナリオだというのだ。情景描写はそれこそ今の流行記事の引用みたいの中に意味のない会話を入れる。意味のないというより感情移入させない会話。それは演出家や役者がテキストを読み込んで感情を付ける。読者は演出家のようにそこに私だけは分かっているという感情を過剰に読み取る。それは村上春樹のディスコミュニケーションなのだが、語りたがる女性の登場で聞き役に徹するのが語り手のディコミュニーケーションを表現している。やれやれはその表層。これはアメリカ文学の翻訳から来た言葉なのだが精神科医のような感じなのかもしれない。次の人どうぞというような。聞き上手になること。だけど聞いちゃいない。本質的に村上春樹の文学はディスコミュニケーションだからだ。

三島由紀夫の分析は二人の学者が論理性を称賛するのだが、富岡多恵子は感性が合わんという。しかし三島の自害には震えてしまったと正直な感想。それはそれまでの戦後の価値観をひっくり返したからだ。ただ二人の学者はそうは受け取っていない模様。これを読書会で持ち出したのは上野千鶴子で彼女は三島の論理性を分析する。それを上野千鶴子の本質は貴族だと言う小倉千加子。三島の貴族性と上野千鶴子の憧れなのか?小倉千加子は三島の同性愛について語る。ほとんどやよい視線だった。小倉千加子の論理が面白いのは男好きの二極性があり美男を好むのはよくあるのだが、相撲取りの肉体に惚れるのが最近のトレンド。三島はその肉体が貧弱だった。だから精神の方に行くのだが、そのバランスが悪かったのだろう。二人とも三島情報に詳しくて笑える。ほとんどファンの領域かと思うがそれを分析すれば逆なんだよな。女嫌いの作家だから。でもそこを突き詰めると三島のコンプレックスがあり、そこに惹かれるのか?三島由紀夫が結婚して子供を生んだことも知らなかった。というか三島由紀夫には無関心だった。富岡多恵子によると三島は結婚に耐えられなかったから自決した(同性愛フィクションを日本とアメリカの関係に置き換えた)。つまり三島の思考は西欧から来ているのだが、アメリカという野蛮(文化のない野蛮さみたいな)に従属させられる日本が耐えられないという精神の在り方。それは日本の自由主義的であったりアメリカかぶれであったりすること。三島由紀夫の世界観はヨーロッパ貴族社会の中にあるというような。文化というそういう貴族社会の文化なのだ。

感性的には富岡多恵子に近いのかと思う。上野千鶴子は以外にエリート思考だと思った。小倉千加子が今のフェミニズムに近いのかな。上野千鶴子をも否定する。

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