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鬼であるのはみはる(寂聴)さんだけ

『あちらにいる鬼』(2022年/日本)監督:廣木隆一 脚本:荒井晴彦 原作:井上荒野 出演:寺島しのぶ、豊川悦司、広末涼子、高良健吾、村上淳、丘みつ子

解説/あらすじ
1966年、講演旅行をきっかけに出会った長内みはると白木篤郎は、それぞれに妻子やパートナーがありながら男女の仲となる。もうすぐ第二子が誕生するというときにもみはるの元へ通う篤郎だが、自宅では幼い娘を可愛がり、妻・笙子の手料理を絶賛する。奔放で嘘つきな篤郎にのめり込むみはる、全てを承知しながらも心乱すことのない笙子。緊張をはらむ共犯とも連帯ともいうべき3人の関係性が生まれる中、みはるが突然、篤郎に告げた。「わたし、出家しようと思うの」。

coco映画レビュアー

 井上光晴のドキュメンタリー映画『全身小説家』を撮った監督原一男は生ぬるい作品だというのだが、この原作を書いたのが娘の井上荒野であるから、母親目線なんだと思った。原一男は井上光晴の目線である。その違いとでも言えばいいのか、それでも寂聴は悪女であった。

 ただ豊川悦司の文学者ものってけっこう見飽きた部分があって、どれも家庭を顧みない作家(詩人)と家族の不幸という構図が見て取れるのだが(ドラマ『荒地の恋』がそうだった、ハマったけど)。

 作家の妻であるけど裏方に徹していて良き女房役を広末涼子が好演しているのか?広末涼子もどっちかっていいうとこういう役が多い気がする(耐える女)。広末だからというのではないが同情心は引かなかったかな。ただ作家の妻で昔は自身も小説を書いていたのに、何故か書かないのかと夫である井上光晴に言われるのだがそれは書いてしまうと家庭崩壊するからなのか?そこまで耐えなければならない妻というのもなんだかなあ、と。それでいいのなら、何故最後に泣くのかな、そこも広末の演技では涙を誘わなかった。これは広末だけのせいでもなくて描き方だと思うのだが。全体的に間延びしていたのは否定できない。ぐだぐだとみはるの関係が続いていくのがもう一つよくわからない。

みはる役の寺島しのぶはやっぱ演技力は確かで小悪魔的な寂聴を演じていた。お茶目なんだよな。まあ、こういう女性はちょっとと思うけど。白木(こっちが役名だった)と一緒に風呂に入って髪を洗ってもらうシーンから髪を切らせるシーンは良かった。ただその後に何度も白木と会おうとするし、決定的に嫌な人だなと思うのは白木家で刺し身を家族分平らげてしまったこと。そこはなんか寂聴さんの図々しさを感じた。娘がそう言うのだから余程記憶にあったことなのか?

 その前に白木と妻が鰻屋に行って、みはるは出家したから肉魚は食べられないのだと言って涙を流すのに、それが裏切られるのだ。喜劇なんだろうか?白木の描き方とか喜劇的にしているのがいまいち肩透かし的なのかもしれない。それはやはり原作者としての娘としての視線があるからだと思う。

『全身小説家』では井上光晴の虚構性について、それは読者が必要とするファンタジーだからリアルであるのだと言うのだ。そこの線引かな。例えば取り巻きの女性とキスはしてもセックスはしないと思う。ストリッパーと露出狂の違い。ストリッパーは計算して見せ方を考えているのだ。それが同好会の余興としての劇なのだ。読者サービスというようなこと。
 それは『全身小説家』でそこまで演る人なのかな?鉱山でイタコをやった幼少時の思い出を語るところに伺える。虚構性がリアリティでないと見破られてしまう。そこのリアリティの問題が表現者としての井上光晴の魅力なのであってそれは『全身小説家』を観ないとわからない。

 鬼という文学者というのを匂わせながら、みはるにそれを被せたのは良かったのか?白木の鬼の部分が見えてこないのだ。道化役であってピエロなのだ。まあ家庭の父親なんてその程度なのかもしれない。


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