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詩の創作の方法論

『詩の本〈1〉詩の原理 』監修:西脇順三郎,金子光晴(1974年)

内容:詩を考える 詩とは何か(金子光晴) 日本近代詩の流れ―詩論の展開(大岡信) 西洋近代詩の流れ―詩論の展開(清岡卓行) わたしの詩論 わが詩学序説(西脇順三郎) 詩のはじまり・詩の運命(天沢退二郎) 炎の花(宗左近) 知られざるPoe´sieをめぐって(高橋睦郎) 詩の言語と詩の空間(富岡多恵子) 詩の生まれる予感(吉野弘) 詩のリズムの工夫(小野十三郎)

日本近代詩の流れ―詩論の展開(大岡信)

現代詩が「新体詩」からはじまったのは、それまで詩といえば漢詩であり、俳句や短歌(和歌)は詩というイメージは持たれて無く歌というのに近いのかな。詩という形を成したものが外国詩として翻訳されたのが「新体詩」と新しいスタイルを持ったのだ。それは小説の言文一致という散文の運動と連動していたようで、文語でどう新しい詩を伝えるか苦心したという。その過程で雅語を使って翻訳する美文調の新体詩が登場してくるのだが、それは言文一致の理念からほど遠いものだった。

北村透谷『楚囚之詩』から藤村『若菜集』によって日本の抒情詩の流れが、上田敏『海潮音』や堀口大學『月下の一群』という翻訳詩が朦朧体というような浪漫主義的な詩を形作っていく。その中で忘れてはならないのが、薄田泣菫と蒲原有明だという。ふたりは文語雅語を用いて文語体の詩を確立していく。それは日常から離れた浪漫主義的古典主義というような詩で、その反発が口語自由詩や文語でも中也や朔太郎のようにわかりやすい詩を生み出していく。

また日本の近代詩は聖書の翻訳も大きいというのは今まで考えたことがなかった。欧米の文学の中心はキリスト教があるのである。そのイメージ世界として聖書が影響を与えなかったはずはないのだ。モダニズムのイメージは聖書的世界観だった。

西洋近代詩の流れ 清岡貞行

ポーからボードレールへフランスの象徴主義からシュールレアリスムまでとこのへんの流れからヴァレリーとなって、小林秀雄かよと思ってしまった。そうした精神主義にはならないようにしている。なぜならその先は死しかないからである。案外詩は死に通じる道なのかもしれない。

とりあえずボードレールの「万物照応」が出ていた。これは要注意な詩かな。

万物照応 ボードレール

「自然」は一つの神殿、そこにある生ある柱、
時折、捕らえにくい言葉をかたり、
行く人は踏みわける象徴の森、
森の親しげな眼指に送られながら。

注意しなければならないのはそれはポーの詩論から始まったことである。ポーの詩論はアルコール依存症から抜け出すための詩作という行為であり、それは錬金術であったのは、後に『ユリイカ』を表すのだがそれも詩論であり人生論ではないのだ。ただポーの文化的遡上としてキリスト教があり、『ユリイカ』を聖書のように取り扱うとそれをキリスト教の神々と結びつけたり、深層心理的なものに錬金術的なヘルメス学を見出したりしてしまうのだった。それが詩作と極めて近似的な位置にあるのである。

そこから精神論を導き出すと小林秀雄のランボーとかヴァレリーに行ってしまうのかもしれない。それらはキリスト教一神教が導き出す世界であり酩酊(酔い)と覚醒がセットで組まれるのである。それはポーがアルコール依存症から見出した詩作であり、象徴主義の詩人たちの酔いが見出したミューズなのである。

ボードレールの「万物照応」が日本の俳句的な世界観にあるとするのは「神道」的世界観と繋がるからからかもしれない。しかしそこから小林秀雄のような精神論につなげていくと一神教的な教義に結びつかないとも限らない。小林秀雄は自我論はなによりもキリスト教的な西欧理論を背景としているのだから。

むしろシュールレアリスムの方へ行きたいのはそいうことだった。夢の解釈よりも無意味さの世界なのだ。

私の詩論

西脇順三郎『わが詩学序説』
詩のイメージは自然と超自然の対立であり、超自然はイロニーを含んだ私の脳髄(イメージか)の欲望だから哀調を帯びていく。詩は存在(自然)を否定して無(死)を欲求する。それはニーチェの言う「権力の意志」に反して、「権力の意志(自然)を認めない意志」だという。「権力の意志」は「種族保存の意志」、つまり生殖のことである。その行為とは反する行為が詩作(思索)することなのだ。

それは詩が想像の世界に生きているからだ。何よりもそれは「思考の自由」である。ボードレール「コレスポンダンス」ということである。

そこからシュールレアリズムは出発するのだが、我が国は俳句というものがあった。不可解な結びつき(二物衝動)は、謎を残し、そこに解釈という読みが生まれる。その共同作業性。例えばデュラン・トーマスの詩などは意味づけしても馬鹿を見るだけでその発想を楽しむ。

詩は一つの偶然の出来事なのだが、そこに「理解を求める」やり方と「わからないままにしておく」やり方があり、前者は精神分析的なシュールレアリズムで、後者の最大の詩人はマラルメだという。そこから詩は無常の世界を形作る。ただそうしたことに絶えられないものは意味づけをするがそれが絶対だと思わない方がいい。「永遠」とか「無限」は想像力が導き出すもので、そこに答えがあろうはずはないのだ。少なくとも個人の思考の中では。

そこが宗教と詩の違いである。詩は存在の神秘だが、そこに神は見出さない。自然と超自然との出会いの場があるのである。

「詩のリズムの工夫──ブレヒトを引用して」小野十三郎

詩の韻律について、今ではそれほど目くじらを立てる人はいない。くじらは鯨と関係あるのだろうか?突然出てきたコトバに驚くのであった。くじらの視線は小野十三郎ということになるのか?

七五調を「奴隷の韻律」と呼んだのが確か小野十三郎だった。

それは短歌的韻律(七五調)が日本の抒情詩を戦時高揚歌と変えていく。

小野十三郎がブレヒトを引用して、

ぼくの歌に韻が添えば、ぼくは
許せぬうわっ調子とさえ感ずるしまつだ。

と書くとき、酔いの酩酊状態からの覚醒を言っているのだった。抒情詩である酔いが演歌のように酩酊させるのが七五調であり、その音韻を踏まないことが理知的な詩の創作方法だという。それは声による詩から文字で書く詩に変わったこともあるのかもしれない。


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