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短歌レッスン

そういえば『タンゴ・レッスン』という映画があったな。

映画監督サリー・ポッターがタンゴに魅せられて、一流タンゴ・ダンサーにレッスンを受けている間に恋に陥るというメタフィクション的作品だった。

一番手っ取り早いのは、恋人が先生でのめり込んでいくという方法だろうか?しかし、そういう先生は期待できない!ならば、本に頼るしかないのではないか?書斎派としてはそういうことになる。木下龍也『天才による凡人のための短歌教室』にもそう書いてあった。

それでテキストにする歌集だが、一冊は『寺山修司全歌集』にしたのだが、もう一冊現代歌人にするつもりがまだ見つからない。一応、穂村弘『短歌という爆弾』を上げたのは、反面教師として、打倒短歌界ということで上げときました。

違うテキストを使うのは、一冊だとその歌人の模倣になりやすい。違う歌人に影響されることで、その人の個性となるというような。ちょっとそれはどうかなとは思うのですが、やっぱ選ぶ時点で社会構造的なものが働いてしまう。つまりその社会で人気のテキストを選ぶ結果、結局凡人の模倣になってしまう。そう思ったりしたのですが、ここは素直に従おう。

寺山修司は短歌より先に映画から入ったのです。この本が家にあったのは、すでに2013年に読んでいたいたから。そのときは短歌にはあまり興味がなかった。というより映画『田園に死す』が短歌から始まったことに衝撃を受けていたのですが。


映画『田園に死す』から衝撃を受けた短歌

「たった一つの嫁入り道具の仏壇を義眼のうつるまで磨くなり」
「見るために両瞼をふかく裂かむとす剃刀の刃に地平をうつし」
「かくれんぼ鬼のままにて老いたれば誰をさがしにくる村祭り」

今読むとそれほどでもないですね。あのときの感動は映像込みだったのかと。

この歌集は、全歌集というタイトルながら、寺山修司の全歌集ではなく選集ですね。出版社もずるいことしますね。まあ、全歌集読むこともあれなんで入門編としてはこの程度でいいと思いますけど(そこが初心者なのかもしれない)。

はっきり言って寺山修司の短歌だけでは良さがよくわからないのです。だから解説を読みます。いきなり塚本邦雄と穂村弘の二人。どういう組み合わせなんじゃ。そのへんが寺山修司の分からなさですかね。

塚本邦雄は、けっこう選集を出しているので読んではいます。解説が難しすぎてよくわからないのですが。ここでも、わからない言葉ばかりですね。ただ気に入った箇所がありました。

最後に一つだけ補足しておきたいことがある。それは行為と実践のちがいである。詩人もまた他の文学者たちと同じように行為者であるべきだが、実践してはならない。たとへば本気でデモの効果を信じ、テロを信じ、世直しのための実践活動家になってはいけないのである。(『寺山修司全歌集』「解説1」より塚本邦雄)

そして、穂村弘の解説を読んでみる。なんか塚本邦雄の解説より納得してしまう。さらに塚本邦雄と寺山修司の短歌における虚構性の違いをあげて、寺山修司の策士ぶりを褒め称えるのだ。その辺に穂村弘の策士ぶりが伺える。穂村弘も寺山修司を目指していた?研究していたことは確かである。

一例を上げるなら、塚本邦雄の虚構性は古典主義のイメージをそのまま短歌に乗せるのに対して、寺山の虚構性はメタフィクション的な、作者が短歌の外にいて傀儡師のごとく短歌の中の「われ」を操っているのだ。ポスト・モダンなのである。そこで一句取り上げる。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽子のわれは両手をひろげていたり

一見甘ったるい短歌だと思うのだが、この中の「われ」がフィクション性で、そう歌っている寺山ワールド(虚構世界)の青春短歌という表現なのだ。この短歌に穂村弘は衝撃を受けたという。わたしは穂村弘の解説に衝撃を受けた。穂村弘の凄さは読み手の凄さにもあったのだ。このへんに正岡子規や高浜虚子に通じるところがあるのかもしれない。

そして、『短歌という爆弾』の「導火線」である。

絶望的に重くて堅い世界の扉をひらく鍵。あるいは呪文、いっそうのこと扉ごとぶっ飛ばしてしまうような爆弾がないものであろうか。(略)千年以上の歴史があって、雅やかで古くさい。いろんなルールがあって、昔の言葉を知らないと作れない。そんなイメージはひとまず無視していい。
もちろん短歌という爆弾も、作り方や使い方次第でその破壊力は大きく変わってくる。本書では最高の爆弾作りをめざして、その製造方法、設置法から構図まで詳しく説明したつもりだ。

もしかして同志?

卵産む海亀の背に飛び乗って手榴弾のピンを抜けば朝焼け   穂村 弘


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