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シン・短歌レッスン32

馬酔木(あしび)が好きなのは、大来皇女(斎宮)が詠んだ歌だったから。

磯の上に生ふる馬酔木を手折らめど 見すべき君がありといはなくに

万葉集の謀反人として処刑された弟大津を慈しんで大来皇女が葬儀の途上で詠んだ歌だ。万葉集はこの歌のために編集されたのかと思うほどインパクトが強いのは、一方に女帝として燦然と輝く持統天皇がいてその裏には壮絶な物語があったということを歌から知ったのだった。

来る道は 馬酔木アシビ花咲く日の曇り―。大倭に遠き 海鳴りの音  釋迢空『やまとをぐな』

中井英夫『黒衣の短歌史』


釈迢空短歌


中井英夫『黒衣の短歌史』

車より降り来し女 美しき扇のうへの秀(ひひ)でたる眉

中井英夫『黒衣の短歌史』

中井英夫の『黒衣の短歌史』を読んでいたら1953年(昭和28年)の3月に斎藤茂吉が9月に釋迢空が亡くなったと出ていた。その年に中城ふみ子と寺山修司をデビューさせたのが中井英夫でその頃の意気込み、短歌のリアリズム(結社主義につながる)を否定し、より今範囲な現代短歌(フィクションという短歌)を目指すことが書かれていて興味深かった。今日は、その釈迢空から。


模範十首

今日は初心に帰って短歌で感動したことを思い出して、穂村弘X山田航『世界中が夕焼け』から穂村弘の短歌十首。

終バスにふたりは眠る紫の〈降りますランプ〉に取り囲まれて  『シンジケート』(1990)
校庭の地ならし用のローラーに座れば世界中が夕焼け   『ドライ・ドライ・アイス』(1992)
夜のあちこちでTAXIがドア開くとび発つかぶと虫の真似して   『ドライ・ドライ・アイス』(1992)
「あの警官は猿だよバナナ一本でスピード違反を見逃すなんて」  『ドライ・ドライ・アイス』(1992)
赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、きらきらとラインマーカーまみれの聖書  『手紙魔まみ、夏の引っ越し(ウサギ連れ)』(2001)
「耳で飛ぶ象がほんとにいるのならおそろしいよねそいつのうんこ」  『シンジケート』(1990)
ほんとうにおれのもんかよ冷蔵庫の卵置き場に落ちる涙は  『シンジケート』(1990)
女の腹をなぐり続けて夏のあさ朝顔(べんき)に転がる黄緑の玉  『シンジケート』(1990)
ウェディングドレス屋のショーウィンドウにヘレン・ケラーの無数の指紋  『ラインマーカーズ』(2003)
オール5の転校生がやってきて弁当がサンドイッチって噂
『楽しい一日』(『短歌研究』2007年2月号〉

バス降車ランプを「降りますランプ」と命名したことの効果。それよりも赤いランプが二人の睡りを祝福しているように感じる。そのまま行けば車庫で降りなければならないのだが。終バスというのもいい。井上陽水『リバーサイド・ホテル』を連想する。

「紫の」から、

あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る   額田王

という歌を想い出すとはいかなかった。
作者談によるとこの歌の響きが「ムル」「ムラ」「リマ」「ラン」「マレ」とMとRが多く使われているので、覚えやすいということだった。あと「終電」は誰もが使うが「終バス」は使うことがない(最終バスか?)。
「校庭の地ならし用のローラー」と敢えて説明的な単語を使っている。名前がわからないものだから(『巨人の星』で♪~重い「コンダーラ」という説もあるが?)避けてしまうのを堂々と言葉にして、下の句に繋げる。「世界中が夕焼け」は漫画の世界だけど、絵が浮かぶ。「夏時間」という連歌の一首だそうだ

サイダーは喉が痛くて飲めないと飛行機が生む雲を見上げて
記憶の夏のすべての先生たちのためチョークの箱に光る蜥蜴を

「校庭の地ならし用のローラー」に座るという意味は、ローラーをしないで一人坐って夕焼けを眺めている状態だと本人の弁。「世界中が夕焼け」と感じるのは幼い人の感想でそれはそうじゃないと知ってしまったら言えない言葉だという。敢えて陳腐な言葉だがそういうことだった。
「TAXI」の歌はそんなにいいとは思わないが「かぶと虫真似をして」の表現だろうな。普通だと「~の如く、~のように」という直喩なのだが、「真似をして」が可愛く思える。その前に「TAXI」という表記が都市短歌の近未来的であるという。かぶと虫は穂村弘が好きなアイテムのようだ。

あ かぶと虫まっぷたつ と思ったら飛びたっただけ 夏の真ん中

自分はこっちの短歌の好きだな。井上陽水「少年時代」の世界。

かぶと虫の金属的な感じがメカニック的でタクシーに見立てた歌だという。かぶと虫をひっくり返すと足の感じとか車の裏側みたいだと。そこまでの観察眼の鋭さか。あと車は空を飛ばないけどかぶと虫にすることで飛ぶような叙情性を持たせたという。これが飛行機だと駄目なんだそうだ。
スピード違反の歌もそれほど好きでもない。虚構性短歌。この「警察官」は恋人の邪魔をする存在なのだそうだ。「ペッパー警部」だな。実際にそういう歌のイメージはあると思う。どう隠すかなのか?言われなければわからない。

後ろ手に隠しているのはパトカーの頭にのっけてあげるサイレン?
警官を首尾よくまいて腸詰にかじりついている夜の噴水
回転灯の赤いひかりを撒き散らし夢みるように転ぶ白バイ

逃避行に闖入してくる間抜けな侵入者を必要とするのは、それを現実的じゃなく虚構にするお膳立てなのか?これは鋭いと作者も認めている。現実感を受け入れたくないからあえて虚構にして笑ってしまうみたいな。二人の世界に敢えて邪魔者を存在させることで親密さを保つ歌なんだそうだ。
穂村弘の短歌にはキリスト教がよく登場するのだそうだ。それは実際の信仰というよりも文学的なモチーフとしてだろう。葛原妙子と同じというか影響力があるのかもしれない。ただ現在の葛原妙子にするには忍びないので「手紙魔まみ」という架空の少女らしいのだ。
「赤、橙、黄、緑、青、藍、紫、」この並びは虹のスペクトルの並びで動かし得ないという。それは「水木地火木土天海冥」というような並びと同じという世界観。だから読みも「せき、とう、おう、りょく、せい、らん、し」と呪術的に読んでいるのだという。いわれなきゃわからんけど、そういうこだわりが歌人にはあるそうだ。
ギャグ短歌だという。あまり好きなタイプでもなかった。こういうジョークは通じる人と通じない人がいるからな。ただ穂村弘が会話体の短歌を作るのは何故なんだろうという疑問が生じた。カッコ書きは、他者による(おそらく恋人)の発話なのだそうだ。子供の世界を意識しているという。そうか子供はうんこが好きだものな。いつから「うんこ」嫌いの大人になってしまったんだろう?
これはディズニーキャラクターのダンボのことで、勿論うんこはしないという前提があり、それを破壊するものだという。カギ括弧の使用は短歌にしたら。声だけが宇宙に残っている感じにしたかったと。虚構性ということか。それをカプセルに入れるみたいなことか?
「卵に落ちる涙」は自己卑下の歌だが、戯画化に成功しているという。自己との距離感が問題なんだな。

夕日の中をへんな男が歩いていった俗名山崎方代である  山崎方代

自己戯画化の極北だという。山田航は、やはりよく短歌を読んでいるよな。山崎方代は興味ある歌人だった。
この冷蔵庫の卵置き場には卵が入っているのか問題は面白い。私も入ってないほうだな。
この短歌は最初「春風遠く聞きつつ」だったらしい。これはあるパターンの短歌(伝統短歌)であるから「ほんとうにおれのもんかよ」に変えたという。この言葉が出てくるというのが凄い!自己戯画化というのは穂村弘にとっては異化作用ということだった。自己を異化させることでものが言えるというような。それが虚構性ということなのだ。しかし多くの人は物語的に読んでいるというのはそうだった。でもそういうファンタンジーは実は嫌いなんだと。レプリカントに投影させるような異化ということらしい。わからん!
「女の腹をなぐり続けて」はレプリカントな感じがする。普通そういう言葉を避けるよな。でもその感情から黄緑の玉が転がっているというミステリー。これは堕胎の歌だという。その嫌悪感か?普通の大人になることへの「拒否と嫌悪感の共同体」という。
「黄緑の玉」は実際にある消臭剤みたいな玉だそうだ。公共のトイレだった。それが社会性ということか?この歌は歌集では落とすつもりだったが林あまりに入れときと言われたとか。本人が気に入らなくても誰かの心に引っかかたものは残すことにしているとか。
ヘレン・ケラーの短歌は納得がいくから好きなんだな。ただその状況は何なの?と言われるとよくわからない。ヘレン・ケラーがウェディングドレスを着ないだろうということはわかる。これは生涯独身だったヘレン・ケラーの幽霊なのだそうだ。そうすると商売の邪魔をしているのだな。本当はヘレン・ケラーは結婚に憧れていたのだとする孤独な様子なのだそうだ。そこまで読むとは凄いな。本人もホラー映画の影響があると言っている。
ありそうな歌だがイメージなのかな。いいとこの学校みたいなイメージ。懐古調の歌。昭和のイメージで現在は通用しないという。本当か?こういう歌を無意識に作ってはいけないという戒めか?

俳句レッスン

ちょっと悲しいことを最初に書かねばならないオンライン句会で最低だった。それが普通の最低ではなく断トツの最低なのである。笑っちゃうね。こんな努力しているのに。そこまで嫌われるかというレベルだった。ほとんど10点ぐらいなのに1点だぜ。佳作1点しか入らない。もう辞めたほうがいいのか?変わっているのは普通の俳句じゃあきたらないから、あえて反則スレスレのことをやっている。でもな、理解する人がいないのなら出す必要ないよな。それほど他人の俳句がいいと思っているわけでもないし。写生句じゃないからイメージだけで作るからちょっと正当性がないんだよな。それはわかっているのだが。

飛梅に枝から枝へ宝くじ(1点)
白雪や姫様気分の白ワイン(0点)
立春にリピートするよ「春よ、来い」(0点)

三番目の句なんて、春の繰り返しを旧暦と新暦のズレで詠んだ傑作だと思ったのだが、独りよがりだった。ありきたりな俳句は作りたくないというか類想句にしたくないから冒険するのであって、そういう人がいないんだよな。

ここで嘆いて仕方がないから今日も研究しよう。今日のテキストは堀本裕樹『十七音の海』。伝統俳句の良さを学ぼう。しばらく初心に帰ってみよう。

第一章 共感力を養う

これだ!共感力がまったくないのかもしれない。でもオリジナルティは孤独な作業だと誰か言ってなかったっけ?

模範十首

渡り鳥みるみるわれの小さくなり  上田五千石
をりとりてはらりとおもきすすきかな  飯田蛇笏
鶏頭の十四五本もありぬべし  正岡子規
づかづかと来て踊り子にささやける  高野素十
秋風や模様のちがう皿二つ  原石鼎
新宿ははるかなる墓碑鳥渡る  福永耕二
うしろすがたのしぐれていくか  山頭火
木がらしや目刺にのこる海のいろ  芥川龍之介
約束の寒の土筆を煮て下さい  川端茅舎
夢に舞ふ能美しや冬籠   松本たかし

「渡り鳥」に視点があり、そのまま渡り鳥からわれへの視点の切り返し。これはなかなかのテクニックだ。いわれないと気が付かないが。まずは作ってみる。先日の飛行機の句から。

春風に子らの飛行機ああ、屋根

春風に乗って飛行機小さな子

上手く出来ないな。難しい。

飛行機は春風に子ら置き去りに

こんなもんか。

全部ひらがなの「すすき」の句。これわかりずらいよな。読みにくいし。せめて薄だけでも感じではいけないのだろうか?

正岡子規の「鶏頭の句」も最初は理解者がいなかったんだよな。この句の良さがわかるのはある程度俳句を読み慣れた人かこれは名句だと思わされている人だよな。高浜虚子は認めなかったのだ。最初に認めたのは俳句以外の長塚節や斎藤茂吉だった。「十四五本」「ありぬべし」という断定の力なんだよな。一二本じゃ弱いのだ。

「踊り子」は秋の季語。盆踊りなんだそうだ。「づかづかと」と「ささやける」の対称性。盆踊りと賑やかな場でのひそひそ話だから、何か意味がありそうな。これは上手い句だな。

「秋風や」の句は、ぜんぜん良さがわからん。前書きがあっった。そういうのは俳句としてはどうなんだろう?前書きで説明しているわけだから五七五で全てを言っているわけではないのでは?「父母のあたたかきふところにさへ入ることをせぬ放浪の子は伯州米子に去って仮の宿りをなす」要は貧乏で揃っている皿を用意出来ないという句であった。「秋風」がそれを引き立てているのか?「皿二つ」と読むことで両親のとの齟齬を暗示しているのだと。

「新宿」の句は高層ビルを墓碑に喩えて鳥が渡っていく様子を詠んだ句だという。墓碑が突然過ぎてなんのことかわからなかった。この句を詠んだ二年後に作者は亡くなったという。そういう風に読むか?

山頭火の句なんて俳句のセオリーだとまったくなっとらんになるのだが、この感じは好きだ。「うしろすがた」は自分では見えないのに客観的に「しぐれ」て濡れているかのように感じさせる。そして冬の季語。完璧だな。

芥川にしては普通の俳句だが。芥川は虚子門下だから普通の写生句なんだよな。ただこの「海のいろ」は見事かな。ただこの句には季重なりなんだ。「目刺」は春、「こがらし」は冬。ただこの場合は冬の厳しさが読み取れる。

川端茅舎の句も病身で亡くなる前の句だという前提があるのだ。「寒の土筆」というのがそもそも珍しい物でそれを料理にするという約束だったのだ。『美味しんぼ』みたいじゃないか?

作者が能の家系に生まれたが病弱で能を断念しなければならなかったという。そういうことはこの俳句からはわからないよな。ただ美しいのかとは思うが。作者と能が繋がって幽幻の世界になるのだと思うが。

なんかあまり共感できなかったな。山頭火の自由律俳句だけだな。そっちに行くのかな

映画短歌

今日はジャン・ルノワールの『どん底』を見たのだ。

学んでも句会は苦界
どん底の
「降りますランプ」点滅してる

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