シン・俳句レッスン131
芙蓉
「芙蓉」が秋の季語だと知って、これが俳句のコードなのかと中上健次が「夏芙蓉」と書いた理由がわかったような。
そう思うと自分の句ながらこれはいいなと思うがもっと破調にすべきだな。
この句はかな女が「虚子嫌ひかな女嫌ひの単帯」と久女が送ってきたので、かな女が「呪ふ人は好きな人なり花芙蓉」と返したが久女が「花芙蓉」は間違いで「紅芙蓉」が正しいと添削したと逸話がある(戸板康二「高浜虚子の女弟子」)のだが、それは作られた伝説であったという話が面白い。俳句の相聞歌という感じなのか?
これも父の俳句「酔臥(よひふし)の宿(やどり)はここぞ水芙蓉」という句を踏まえた本歌取りだという。酔芙蓉を蓮の花に見立てて読んだのか?なかなか高度なテクニックだった。
「芙蓉」と「千年の愉楽」でいくつでも句が出来そうな感じだ。そうだ、俳句を一行書きにするのもコードなんだ。多行俳句の精神をこの頃わすれている。
二行にわけたことで「夏芙蓉」が別世界であることを暗示した。
昭和俳句「知られざる新興俳句の女性俳人たち」
川名大『昭和俳句の検証』「知られざる新興俳句の女性俳人たち」から。「新興俳句」で女性俳句を紹介した本なんて読んだことはなかったのだが、東鷹女・藤木清子・すゞのみぐさ女・竹下しづの女・中村節子・丹羽信子・志波汀子・坂井道子・古家和琴を紹介している。東鷹女(三橋鷹女)とかは「新興俳句」系であり、けっして「新興俳句」の俳人ではないのだが。
再三取り上げるがこれは昼顔を見るたびに思い出す句だった。
鷹女の出現は短歌の与謝野晶子の出現に似ているという。浪漫主義的幻想の趣味の中に確かなる俳句は個性的であり情熱的であり感情的であり愛欲的である。
藤木清子は宇多喜代子が取り上げていた本を読んだことがある。
偶然か?そのときも中上健次「夏芙蓉」を取り上げていた。
藤木清子は数少ないアウトサイダー的な銃後俳句を仕立てた俳人であり、それは戦時に寡婦となり、戦時に於いて、部外者の不要者(余計者意識という厭世観が交差した感情)という厳しい中での境涯俳句であった。
すゞのみぐさ女
すゞのみぐさ女は戦時に夫を出征させるというそれまでモダニズム俳人だった人が一気に影を帯びた人になってしまう境涯俳句なのだという。「新興俳句」の人らしく、連作句が多いという。
俳句の連句より現代詩っぽいな。近代詩か?「出征」即「葬式」みたいな菊の花だ。その白菊の虚無感。見事すぎる。
竹下しづの女
竹下しづの女も東鷹女と同じで新興俳句とは違うのだが、ただそのモデルというような作品を残した。
「須可捨焉乎(すてつちまをか)」が漢詩体なのだが口語になっているというそのど迫力。これが「ホトトギス」初投稿だったが、「ホトトギス」流の俳句コードに悩んで句作を中断。「天の川」の吉岡禅寺洞との恋の破綻。「天の川」は新興俳句系の雑誌だったいうから、それで新興俳句系とは距離を置くようになったのか?竹下しづの女の特徴は漢詩の訓読体を多用する教養主義と女性ならではの感情が文法を無視しているという。「須可捨焉乎」も正しい漢文ではなく、和漢折衷の表現なのだ。「乎」が反語表現で捨てるに捨てられぬ母の心情を詠んでいるのである。竹下しづの女は教師として自立した女性でそれまでの寡婦の俳人とは俳句の違いを見せる。
この句には戦争肯定とは違うが人生を肯定しようとする生き方がある。そこに寡婦の俳句とは違った婦人会的なものがあるのかもしれない。この時代国民感情に不同調することは不可能だったのである。
中村節子
藤木清子のライバルと見られた新興俳句系の俳人。タイピストとして新聞社勤務で自立したキャリアウーマンだったようである。
伝統俳句を抜けきれずに新興俳句系のモダニズムが折衷したような句であった。「鶏頭陣」ではそんな句風か性格のせいか、あまり歓迎されなかったという。興味深いのは同じ結社の東鷹女とのライバル関係である。それはシスターフッド的な協調関係とはならず排除関係になってしまったことだった。
鷹女のこれほどの攻撃性はなんだろうか?鷹女の師系筋に小野蕪子がいたこと。節女は小野蕪子からは歓迎されなかったのだろうと考えてしまう。つまり当時の男尊女卑の結社のなかでの女性の位置は節女タイプの方が警戒されたのだと思う。小野蕪子の政治性は後の新興俳句弾圧運動になっていく。
そして「鶏頭陣」を去り「旗艦」に藤木清子と共に加わる。その時に俳号を節女から節子に変えていた。
「旗艦」での節子はパッとしなかったようだ。桂信子の証言によると危険分子だから近づくなと言われたという。それは小野蕪子が送ったスパイであるという意味だった。
藤木清子に捧げた句が哀しい末期のように思える。
丹羽信子(桂信子)
「旗艦」で藤木清子が華々しく活躍していた頃の「旗艦」に入ってきた最後の世代という。
「旗艦」デビュー作。
初初しい感じか?
新妻の初々しい心情を詠んだものでこの時期の暗い藤木清子の作風とは違っていた。
信子が師事していたのが日野草城ということだった。信子は新妻でありながら戦時は凛とした一本筋が通っている句を詠んだという。
丹羽信子のピュアな女性性はこの時期には新鮮だったのかもしれない。
志波汀子
「京大俳句」で注目すべき三人の女性俳人として、藤木清子、東鷹女、志波汀子と挙げられたが今はほとんど知られていない。母性愛を強く詠った俳句を詠むが、モダニズム的口語俳句で斬新。今でもこういう俳句は見たことなかった。新興俳句弾圧の犠牲者のように思える。
志波汀子は二十代の若い母親という以外経歴がわかっていない(新興俳句の俳人と結婚した)。「Our Gang」では「ギャング」という言葉を子供に見立てた生活詠を「子供の言葉」は連作句で、子供の視線から見た母親の姿を詠んで新鮮である。藤木清子、東鷹女と比べて、読者の中に刻まれる詩心の不足だろうか?しかし、その表現行為は今なお新しい俳句だ。
志波汀子は母性俳句だけではなく銃後俳句も詠んでいた。
あまりに感傷的と渡邊白泉から批評された。
NHK俳句
偶然にも教育者であり俳人のすずき巴里の子供俳句が掲載されたが、伝統俳句内の言葉で新鮮味はなかった。
ただ教育者として子供に俳句を教えているのは評価されるが、その句を子供ながらの視線とベタ褒めするのはどうかと思う。ほとんど意図的ではなく読みの過剰さによるものだと思えるからだ。その句が今の新風なら評価できるのだが、偶然のAI俳句的なものにしか過ぎないような。子供はほっとくと真似したがるという至言で、俳人もそうなのである。季語の必然、人の真似はしない、「楽しいな」「嬉しいな」を入れないという。それは必ずしもそうではなく、言葉との結びつきで自然に詠んでいる俳人もいる。
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