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西脇順三郎の俳諧性

『詩人たちの世紀―西脇順三郎とエズラ・パウンド』新倉 俊一

 本書は、歴史と空間を自在に往来しながら、二人の生涯と詩的発展を詳細に、堅苦しくなく逸話も満載して語った、ユニークな評伝である。孔子を核に東西文化の融和を志向したパウンドに、老荘に惹かれた西脇。これはまた、一種の壮大な現代詩入門でもある。

「今はしかし/唐の詩人のように城外に出て……はてしない存在/を淋しく思うだけだ」(「自伝」)

20世紀はジョイスでもエリオットでもなく、まさに「パウンドの世紀」であると、ヒュー・ケナーは喝破した。そのパウンドはかつて西脇の詩を称揚して、この『あむばるわりあ』の詩人をノーベル賞に推した。これら二人のモダニズムの巨人に精通する著者は、それぞれの生涯と詩的発展を詳細かつ具体的に辿り、そのグローバルな詩的照応と魅力を明らかにする。ホメロスと老子、ダンテと芭蕪、ペイターとジョイスなど、世界文学の中で自らの詩的世界を構築した二人の大詩人を中心に展開する詩的饗宴にして現代詩入門。
目次
第1部 変革の詩学・一九〇八‐一九三三(プロローグ・近代詩と渡欧者たち;西脇の留学まで ほか)
第2部 近代の超克・一九三四‐一九四五(パウンド、古典と近代;近代の超克論争と日本回帰 ほか)
第3部 東洋と西洋の融合・一九四六‐一九八二(戦後詩のトポス;「見立て」の手法 ほか)
第4部 パウンドの世紀・詩と反響
第5部 ユリシーズ、私の「ユリシーズ」?―『キャントーズ』への案内

アメリカのモダニズム詩人のエズラ・パウンドはイタリアに亡命するとムッソリーニを支持したことにより逮捕、収監されてしまう。それでも彼を支持する詩人(ビートニックの詩人たち)は多く、そうした者たちの交流。

それはパウンドが示した即興性と批評精神かもしれなかった。ムッソリーニを支持したのもその裏にはアメリカ批判があり、反ユダヤ主義もアメリカ資本主義の本質を見抜いていたからかもしれない。しかしパウンドの挫折はそうした理念が敗れ去ったことだった。その方法論から学ぶべきものとしてビートニックの詩人たちはパウンドの新しさを見たのだった。

西脇順三郎もイギリス留学時代にモダニズムの洗礼を受け俳句や能に理解を示すパウンドとも交流するようになる。パウンドが西脇順三郎をノーベル賞に推薦したとか(日本側が手を廻した感じだが)。西脇順三郎の詩の中にあるパロディや諧謔精神が俳句や能にあったとか、そして晩年は漢詩にも興味を示すようになる。パウンドもそうした外部の詩への興味で繋がっていく。

西脇順三郎の重要さはモダニズムからシュールレアリスムと経て、そして俳句や能や漢詩からも影響を受けていく。それは西脇順三郎の詩にあるパロディや諧謔精神だということだった。パウンドもそういう面があったのだが、批評としてアメリカ批判(反ユダヤ)と政治に関わってしまったことが悲劇になっていく。またパウンドの権威主義的側面もパーソンズの詩人( ウィリアム・カーロス・ウィリアムズ)の反発を喰らうのであった。それは彼の日常詩が小さな世界だけのように感じてもっと外部と接触しろということだったのかも。ただそういう言動は余計なお節介だと反発してしまうものである。

西脇順三郎はそうした権威性はなく、むしろパロディや諧謔の人だから、そうした権威性をおちょくっていたのだった。その位置に芭蕉もいる。


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