少女はなぜ懸命に走ろうとしたのか?
『コット、はじまりの夏』(2022年製作/95分/G/アイルランド)監督・脚本:コルム・バレード 出演:キャリー・クロウリー、アンドリュー・ベネット、キャサリン・クリンチ、マイケル・パトリック
先日観た『ミツバチと私』といい勝負だよな。
チラシにあるような全力疾走の少女の姿をラストで焼き付ける。なかなかの演出力だと思った。別れのシーンで子供があとから駆け寄って来るのである。「行かないで!」と叫んでいるように。古くは『シェーン』のラストとか『クレイマー・クレイマー』の別れのシーンとか、そんなラストシーンで泣けるベスト映画と言ってもいいぐらいの映画なのである。なぜそんなに泣けるの?
少女のある夏の成長記録なのだが、その少女は親から顧みられない末っ子で、女ばかり四姉妹(『若草物語』に代表される華やかさはない)なのだが、貧しいアイルランドを舞台にしているので、女の子よりも男の子を必要としている保守的な地域なのだ。そこで余計者扱いの少女は家族から顧みられず姉妹からも仲間外れで学校でも変わった子で通っている。
そんな少女が夏休みの間だけ叔母さんの家に預けられる(母親の出産のためだった)。その叔母さんの家での滞在期間で少女は無力な存在から自らを意思表示出来まで成長していく話なのだ。
その叔母さんが少女を預かるのは亡き息子の面影のためだったのだ。それは少女に取っても酷いことだと夫は知っていたのだろう。夫は少女を預かることには快く思ってはいなかったのだ。それが少女と叔父さんの最初の頃の冷たい関係だった。
しかし、叔父さんは少女のひたむきさに心を開いていく。心を開いて行ったのは少女の方かもしれない。何故か叔母さんよりも叔父さんに懐いてしまうのだ。それは叔母さんは少女は死んだ息子の変わりだと深層的なところでは気がついていたのかもしれない。それが明らかになるのが村の葬式のシーンで、そういう少女に秘密が明かされるシーンも丁寧に描いている。
ただそこでも叔父さんが少女に妻がしたことを説明しようとするのだ。ここはファンタジーではないのだが、ファンタジー的に語られるのだ。つまり彼女通過儀礼としての森の話のようになっていく。
そして夏休みも終わっていよいよ少女は実家に帰らねばならない。男の子も無事に生まれて、また元の生活に戻るのだ。少女が毎日、手紙を取りに走っていた(それを叔父さんは少女の役割として与えた)記憶がふと走馬灯のように蘇り少女は駆け出すのである。それほど美しく走る少女の姿に出会える映画なのだ。
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