見出し画像

たけのこやパサージュのシンウルトラマン


『パサージュ論 (五) 』ヴァルター・ベンヤミン 今村 仁司 (翻訳), 三島 憲一 (翻訳), 大貫 敦子 (翻訳), 高橋 順一 (翻訳), 塚原 史 (翻訳), 細見 和之 (翻訳), 村岡 晋一 (翻訳), 山本 尤 (翻訳), 横張 誠 (翻訳), 與謝野 文子 (翻訳), 吉村 和明 (翻訳)(岩波文庫)

事物や歴史の中に眠り込んでいた夢の巨大な力を解放すること――それがベンヤミンのパサージュ・プロジェクトだった。「文学史、ユゴー」「無為」などの断章や,初期の草稿「土星の輪あるいは鉄骨建築」, 『パサージュ論』をめぐる書簡を収録。引用文献一覧、人名総索引を付す。全5巻完結。
覚え書および資料
b:ドーミエ
d:文学史、ユゴー
g:株式市場、経済史
i:複製技術、リトグラフ
k:コミューン
l:セーヌ河、最古のパリ
m:無 為
p:人間学的唯物論、宗派の歴史
r:理工科学校

初期の草稿
土星の輪あるいは鉄骨建築

『パサージュ論』に関連する書簡

解説……………細見和之

ベンヤミンの引用集だからまとめようがないのだが、昨日横浜みなとみらいへ映画を見に行く途中にベンヤミンの『パサージュ論』が具現化しているのを見た。

画像1

「シン・ウルトラマン」が『パサージュ論』に相応しいと思うのは、かつてのメシア的光の勇者だったものが、破壊と構築の資本主義社会の中の幻想(ファンタスマゴリー)の象徴として、夢から目覚めぬ五月の余韻の中で突然、装い新たに現れた。それはガラスドームに守られた虚像にしか過ぎない(ガラスを突き破る存在ではなくちょうどいいサイズに収まる存在)。

ファンタスマゴリーの美化する力は啓蒙へ反転する。「シン・ウルトラマン」がもはや国家のために戦うものとしてのファンタスマゴリーとして機能しているのだ。かつて怪獣との戯れに秩序を破壊してきた姿はそこにはない。それは、パサージュの外で参院選のために演説していた三原じゅん子と変わらない(客寄せパンダ)。

「シン・エヴァンゲリオン」「シン・ゴジラ」「シン・ウルトラマン」と「複製技術の芸術」と化していることに気がつくべきだった。その先の未来主義は、ファシズムこそ相応しい。この「シン」は新自由主義のシンなのかもしれない。「シン・憲法」として公開されるのか?

【募集】『シン・憲法改正草案素案』へのパブコメ募集! https://new-kokumin.jp/news/policy/2020_1127_3
「プルーストがその生涯を物語の目覚めのシーンから始めたのと同様に、あらゆる歴史的記述は目覚めによって始められねばならない。歴史記述は本来、この目覚め以外のものを扱ってはならないのだ。こうしてパサージュ論は一九世紀からの目覚めを扱うのである。」(鹿島茂「ベンヤミン『パーサジュ論』熟読玩味」)
「蒐集家にとって一番の魅力は、個々の事物を支配圏内に封じ込めることで、封じ込められた蒐集品はそこで、(略)彼の個々の所有物の中でひとつに圧縮された魔法の百科全書となる。そしてこの百科全書の総和が彼の対象の運命なのであります。」(同書)

ベンヤミンの蒐集家の凄いところは、図書館に行って本を書き写す。それは定住できないベンヤミンが書籍を集めることが出来ずパリの図書館で書き写したノートが元になって『パサージュ論』が出来ていることだ。引用をシュルレアリスムの方法のようにモンタージュする。その隙間に彼の思考を潜入させる。

ベンヤミンが古本の中から一部を引用するとき、引用句は、そのとたんに、ベンヤミンにとってしか意味をもたないもの、つまり彼と出会った点においてのみ価値を有するものとなる。ベンヤミンの方法を理解するには、引用するベンヤミンを引用するだけでいいのかもしれない。あとは他者の解釈に任せる。シュルレアリスムだから解釈はしないのだ。

ベンヤミンの方法としての写経は、精神統一と言葉の世界へ夢見る方法で、シュールリアリズムのカットバックとか異化作用を引き起こす。ベンヤミンが『パサージュ論』で見出した手法(日本では「写経」という手法があるが、ベンヤミンは「書記」(筆記)かな。ユダヤ教の戒律を文字で伝える方法をアレンジして、マルクス主義に接続したようだ)。誰でも簡単に出来て、その世界をより深く楽しめる。


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?