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女性性の喪失と過剰に求める二人の元女性兵士の関係

『戦争と女の顔』(2019/ロシア)監督:カンテミール・バラーゴフ 出演:ヴィクトリア・ミロシニチェンコ/ヴァシリサ・ペレリギナ/アンドレイ・ヴァイコフ/イーゴリ・シローコフ


解説/あらすじ
1945 年、終戦直後のレニングラード(現サンクトペテルブルグ)。荒廃した街の病院で、PTSD を抱えながら働く看護師のイーヤは、ある日後遺症の発作のせいで、面倒をみていた子供を死なせてしまう。そこに子供の本当の母で戦友のマーシャが戦地から帰還する。彼女もまた後遺症を抱え、心身ともにボロボロの二人の元女性兵士は、なんとか自分たちの生活を再建するための闘いに意味と希望を見いだすが...。

スヴェトラーナ・アレクシエーヴィチの証言集「戦争は女の顔をしていない」を原案。これは脚本が良かった。本と違うと言っている客もいたが、映画ではよくあること。それに題名も違うのだから別物と考えたほうが良い。

ただアレクシエーヴィチ『戦争は女の顔をしていない』の証言をヒントに脚本を作った感じで、そのテーマはセリフの中には生かされている。例えば戦争では女性の下着は支給されないとか下着とか軍服姿ばかりで可愛い服に憧れるとか。

最初のっぽさんのイーヤがPTSDで苦しんでいる映画かと思ったら、戦友だった女とのレズビアン的関係とか、その後の告白とか壮絶すぎた。自民党の女性幹部みたいな官僚夫人も出てきて、そのシーンも息を飲む展開。ラストは号泣。イーヤの空っぽというセリフも涙を誘う。

イーヤを演じるヴィクトリア・ミロシニチェンコは、バレーボールのソ連代表かと思うぐらいの長身。彼女が突っ立ったまま硬直して震えるPDSTの症状を見事に演じている。凄いリアリティある演技だった。それと子供とじゃれていて、いつの間にか子供を押しつぶしてしまうシーン。イーヤが背が高く威圧感があるだけに、ちょっとしたことでも凶器になりうるというシーン。

そのイーヤに対して優位的に振る舞うのが、マーシャ演じるヴァシリサ・ペレリギナ。二人は戦友なのだが、レズビアン的な関係のようで、攻めているのはマーシャなのだ。その要求は、イーヤに対して不条理なことも要求してくる。イーヤがマーシャの子供を殺したということもあるのだが。その関係性がサド・マゾ関係というエーリッヒ・フロム『自由からの逃走』に書かれている権力者と服従者の構図は、まさに軍隊での序列を感じさせるものだった。

イーヤの自由になれない身体とマーシャの感情。その関係性が最初はレズビアン的な愛の行為だと思えるのだ。だが、過剰なまでにイーヤに服従を要求してくるマーシャのそれも戦時中のPTSDとして巣食っていた狂気だったと知る。彼女は弱い女性でそれを守っていたのがイーヤだったと知ることになる。それは男たちの慰安婦としての女性性だったのだ。

それが明らかにされるのが、マーシャに恋人の男がソ連の女性幹部で息子がマーシャを妻に迎えたいと紹介する家に招待されるシーン。そこで自民党の女性幹部のような態度の夫人に戦争で起きていたことをぶちまけるのだ。彼女は戦場の妻だった。その展開も息を飲むシーン。つまりレイプされたのはソ連兵の男によってなのだ。従軍慰安婦としての存在。それでも子供を授かり、彼女はその子供もイーヤに預ける。イーヤは戦場ではマーシャを守れなかった。その倒錯した感情が二人の病として共依存という関係として成り立っていた。

マーシャは実はイーヤ以上にPDSTを抱えていたのだ。それは戦場が女性性を破壊するものとして、壊れた機械として過剰に反応してしまう二人の関係性だ。イーヤは空っぽといい、マーシャは過剰に女性性を求める。その印象的なシーンが緑のスカート服を着たときのはしゃぎ方だった。壊れた人形のようにくるくる回る。そのシーンのイタイタしさ。そして、彼女はその緑の服を着て、婚約の席に望むのである。しかし、彼女はすでに女性性を失っていた。

列車事故のシーンは『アンナ・カリーナ』を連想させた。ロシア文学の伝統かな。壊れた二人の女性兵士の帰還物語。彼女たちの戻る場所は、もうそこにはなかった。

エンディングの音楽も事切れたタンゴのような演奏で最後まで容赦ない演出。

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