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風流から風狂へ向かった俳人たち

『俳人風狂列伝』石川桂郎

種田山頭火、尾崎放哉、高橋鏡太郎、西東三鬼…、破滅型、漂泊型など強烈な個性を持った十一名の俳人たち。人生と世間と格闘しつつ、俳句に懸けた彼らの壮絶な生きざまと文学世界を端正な筆致で彫琢する。読売文学賞受賞作。
目次
蛸の脚―高橋鏡太郎
此君亭奇録―伊庭心猿
行乞と水―種田山頭火
靫かずら―岩田昌寿
室咲の葦―岡本癖三酔
屑籠と棒秤―田尻得次郎
葉鶏頭―松根東洋城
おみくじの凶―尾崎放哉
水に映らぬ影法師―相良万吉
日陰のない道―阿部浪漫子
地上に墜ちたゼウス―西東三鬼

俳人であり随筆家でもあるのかな。俳人は俳文といって芭蕉の頃から随筆が上手い人が多い。子規もそうだし、虚子は小説家に成りたかったとか。このエッセイで紹介される西東三鬼も『神戸・続神戸・俳愚伝』で戦時中の神戸での生活を描いていた。

写生ということで観察は得意だし、感情に溺れるような文書ではなくどこかドライであり、さらに俳句が付け加えられるとそこだけで印象的な場面になるのだった。西東三鬼との出会っていろいろ友情を育むのだが、肺癌になって入院してしまう。ダンディな三鬼が入院して、あの名句が誕生したのは、すでに病魔に侵されているときだった。

水枕ガバリと寒い海がある  西東三鬼

一つの俳句にもドラマがあるのだった。

石川桂郎も酒飲みの放浪者タイプの風狂の人なのだが、昭和の俳人はそういう人が多かったようだ。もっとも俳句をやっていても金になるわけではなく昔は穀潰しのダメ人間と観られていたという。そういう環境が俳句という短詩を作るのに向いているのかもしれない。長文を書こうとする人はそれだけで食べていける生活だが、俳人=廃人と、それだからこそ日々の瞬間に生きがいをみいだすのだろうか?ダメ人間のオンパレードなんだが、どこか魅力的にも思えるのは石川桂郎の筆致のせいかもしれない。

最初の高橋鏡太郎は度肝を抜くぐらいの風狂な人で結核で入院したのだが、病院が三食昼寝付きの快適な生活だと感じたらしく、退院したくないのだった。そこで朝他の結核患者が吐いた血痰を飲み込んだとか。そして飲み屋では誰彼なしにたかって友達になって奢ってもらう生活。ただ俳句は味があるんだよな

踏みし土筆立ち直らんとするを見つ  高橋鏡太郎

だいたい風狂の俳人は酒飲み(アル中と言ってもいいかもしれない)が多くてそれでまともに働けないのだった。自由律の放哉や山頭火などはそのタイプでそれでも面倒を見てくれる人がいたのが不思議なぐらい。山頭火が酒好きだが俳句の中で求めていたのが「水」だったというのは鋭い指摘だ。どこか浄化されるものを求めていたのかもしれない。

伊庭心猿。永井荷風『来訪者』のモデルとなった詐欺師の俳人。荷風の原稿を借りてその筆跡を真似て偽原稿として売りさばいたとか。荷風には『四畳半襖下張り』などの春本もあったので、その未発表原稿だとかいって貸本業で儲けていたらしい。それで『四畳半襖下張り』が世にでることになったのだ。

岡本癖三酔(おかもとへきさんすい)は俳号だけでも風狂な感じがする。家が財産家で何もすることがないから俳句を作っていたという。有季自由律というなんとも自由過ぎる俳句を作っていた。

それと反対に漱石の弟子である松根東洋城は渋柿という結社で自分が選んだ俳人だけしかいれないような厳しさなのだが、俳諧であまりにも煩いので別のグループを作って脱退していく者が多かったとか。しかし女癖が悪くてそれが元で渋柿の主催を引退し引き継いだ人はあまりにも松根東洋城が煩いので嫌になってしまったとか。俳句にはそういうオヤジもいるのかもしれない。女好きだから風狂ということなんだが。

やっぱどっちかというと無職者タイプの風狂俳人は魅力的に書かれている。岩田昌寿は検索しても句集も知られず精神病院に入っていたが、一人の女性を愛し続け、その日記や手紙に書いた俳句が素晴らしく俳人として輝いていたという。


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