伊藤野枝のセンチメンタル主義
『伊藤野枝集』森まゆみ編集(岩波文庫)
映画『風よ あらしよ 劇場版』を観て、大杉栄が逮捕され後藤新平に長い手紙を書くシーンが印象的でその手紙を読みたくて読んだ。野枝の論法は逆説で大杉を勾留したままでいいですといい、その結果何が起きても責任が持てないというのだ。その逆転の発想が面白い。
山川菊栄に対しても観念よりも実地から攻めているように思える。それは自身の体験からくる思想なのか。そこが平塚らいてふから「青鞜」を引き継いだ実地なのだろう(成功はしなかったが)。
解説で野枝が初期の作品で故郷の今宿の前近代的な村社会が嫌で自由なる東京に出てきたが、そこでの体験を通して前近代的な社会の「相互扶助」という思想を見出したとある。東京(中心)という近代化の中で喪失していくものが例えば山川菊栄と論争になった公娼制度の廃止の議論に於いて、そこを追い出されてしまう娼婦たちは「相互扶助」という繋がりを無くし、孤立化していく。その中で女性の自立と言われても観念でしかない。野枝も公娼制度は最悪なシステムであると認識しているのだが、その中にいる個人に対しては違う意見があると理解する。
大杉栄との三角関係も観念的なものよりも行動が先に立つ人なのだ。そこが神近市子との観念的な恋愛自由主義という理想論とは違うのだ。まず野枝が気遣うのは、妻である堀保子だったということが大杉栄からの手紙から伺える。堀保子を蔑ろに出来ない。それで大杉栄に彼女との対話を求めていたのだ。その手紙には大杉栄が彼女から逃げているという言葉もあった。
神近は大杉に金を援助することで、堀保子との関係は精算出来ると考えていた。経済的な問題に過ぎずに彼女が大杉の借金を肩代わりすれば大杉は自由だと思っていたのだ。そこに野枝が泥棒猫のように愛をかっさらっていく。このへんの事情は書かれていないので推測するしかないのだが、愛は金で買えなかったということなのではないか?それ以上に大杉が悪人なのだが。
むしろ殺傷事件は大杉に弁解の余地はなかった。それは彼は悪人であることで開き直っているからである。大杉のアナーキストは悪人になっても自分の欲望を推し進めることなのだと思う。その悪人にも惚れて離れられない野枝だったのである。それを愛と呼ぶべきか?野枝が愛という弱者に対して相互扶助的な感情を抱くのをセンチメンタル主義とか映画では言っていた。
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