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それでもアナーキストに憧れる

『増補 民族という虚構 』小坂井敏晶 (ちくま学芸文庫)

〈民族〉は、いかなる構造と機能を持つのか。血縁・文化連続性・記憶の再検証によって我々の常識を覆し、開かれた共同体概念の構築を試みた画期的論考。
“民族”は、虚構に支えられた現象である。時に対立や闘争を引き起こす力を持ちながらも、その虚構性は巧みに隠蔽されている。虚構の意味を否定的に捉えてはならない。社会は虚構があってはじめて機能する。著者は“民族”の構成と再構成のメカニズムを血縁・文化連続性・記憶の精緻な分析を通して解明し、我々の常識を根本から転換させる。そしてそれらの知見を基に、開かれた共同体概念の構築へと向かう。文庫化にあたり、新たに補考「虚構論」を加えた。

第1章 民族の虚構性

最近、司馬遼太郎の歴史小説を史実と受け取るのを見受けて興味を持った。『坂の上の雲』はNHK大河ドラマでも放映され、司馬遼太郎は敗戦時に「日本人とは」という感情をそれほど歴史的に重要ではない青年に感情移入させたから、読まれているのだ。それは文学なんだ。そういう物語を必要とされるのは、敗者であった日本人には必要だったからだろう。自虐史観というのは、ある面正しくて敗戦の歴史だったわけで、戦後学んだのは民主主義という勝者の歴史だ。

歴史が扱うのは事実だけで、人の感情はほったらかしにされている。歴史に感情を持ち込んではいけないことになっているのだ。だからこそ私は、歴史家の目ではなく文学者の目で世界を見る(『セカンドハンドの時代』)
「歴史」か「物語」か 司馬遼太郎「坂の上の雲」の真実:朝日新聞デジタル https://www.asahi.com/articles/ASN7Q62WCN7JUCVL00P.html

そうしたことで信じられている民族というものが、科学的なものではなく、極めて文学的な虚構の物語という歴史の上に成り立っている。古事記にしても日本書紀にしても、天皇が現人神と直結するなどと非科学的なことは、民主主義教育の中では教えられなかった。それでも我々の中にある民族の神話というもの、民族同一性に拘ってしまうのはなぜなのだろうか?

それは異質な他者を排除するという問題も見受けられる。そうした差別化は、異質性よりもより同質化していく過程で異民族との境界が曖昧になることの恐れだという。そもそも民族性という事自体が疑わしいのだ。それを強化するのは、同一性の神話であり、他者の混入によって境界が曖昧になるほど、排除の意識が強まるという。

例えば日本人という近親性である韓国人は差別を多く受けるがアメリカの黒人は、本国のアメリカよりも差別的でもないという。日本に来て歓迎を受けた黒人ジャズマンたちの多くは日本に良い印象を持って帰る。

境界が曖昧になればなるほど、境界を保つための差別化ベクトルがより強く働く。人種差別は、異質性の問題ではない。その反対に同質性の問題である。差異という与件を原因とするのではなく、同質を差異化する運動のことである。


第2章 民族同一性のからくり

民族が同一とされる3つの根拠。
1.個々の超越するなんらかの本質が存在する。
2.構成員の血縁連続性によって維持される。
3.民族を構成する個人は入れ替わるが、文化的継続がある限り、民族同一性は保たれる。

1.は宗教観から来る同一性だろうか?宗教でなくとも、民主主義国家ならば、その統合システムとして、あたかもそれが単一の上位システムだと思われがちだが、実際は移動(亡命)することによって変えることはできる。本質の実態は、主体性を持つ実体(個人)を民族として留めることは出来ない。

2.日本人を単一民族だとする俗説は、帰化人や大和以外の先住民を吸収して出来た国家だという事実は、認識されている。天皇家も帰化人とする説もあるぐらいに。さらに移民化による混血もどこまでが日本人であり、日本人以外なのかも血縁に頼るならば極めて曖昧だ。例えば帰化した力士は、血縁がまったく関係なく、実質的には日本人になれる。

実際に血縁は、養子縁組や直系ではない子孫によって、移り変わっていく。多くは家制度の中で伝統芸を守っていくが、能力のある者が養子縁組によって家長となる場合もある。

天皇の正統性は、天皇家の血縁連続性ではなく、天皇霊の一貫性、普遍性に求められる。国家神道としての霊的(神)存在が現人神なのだ。大嘗祭などの儀式によって天皇となる(折口説)。

3.外来要素を排除した純粋な土着思想は、すでにない。例えば、日本では中国からの影響があり、戦後はアメリカの影響を拭えない。それらを排除して、日本の土着思想だけで生活するのは無理なのだ。

しかし、文化は変遷していく。我々が抱く心理現象としての同一性は、集団的同一性を持つのかが問題として残る。

第3章 虚構と現実

虚構(物語)は、それを拭い去れれない現実が存在する。捏造される現実と言ってもいい。マックス・ヴェーバーの「合法的支配」「伝統的支配」「カリスマ的支配」という合理化社会学。

神の死という超越論的存在からの「疎外」を、マルクスは自由の喪失と受け取り、ヴェーバーは意味の喪失と受け取った。

具体的に「歴史の意志」とか「民族の運命」などというもは存在しない。しかし、社会意識(秩序)は我々個人の前に現れてくる。

しかし、そうした疎外のお陰で人は自由になれるとも言える。恣意的に制御する法の中でこそ、個人の自由を謳歌出来るという考え。

虚構を信じることによって、現実の力を生み出す(物語によって突き動かされる力)。虚構と現実は不可分に結びついている。虚構が現実の中で機能するのは、そうした虚構性が隠されている時だ(「王様は裸だ」と言う者がいるのはまずい?)。それらによって、民族の同一性が保たれる。

第4章 物語としての記憶

集団的記憶は、無意識的捏造を含むがそれが同一性として共同体に信じられていく。それを個人が自己同一化する過程として自己として共同体の中に開いていく(構造化される)。これは自律幻想であるが、個人の自由意志の中で決定されると信じられている(指向性や嗜好性?)。

個人主義の者が自由意志のもとで、もっとも過激なナショナリズムに陥りやすいのも、回りに影響されまいとする声を内側から聞くからだ(ハイデガーのナチス問題)。アーレントの孤立したものは、他者の声は聞こえない。

脳という虚構作成装置は、欠如したものを補おうとする。集団的記憶の欠如は、全体性によって意識される。つまり自己同一性によって、集団意識は自己のものとして認識されうる。例えば「親鸞」という人物を意識する場合、好きな作家が物語った「親鸞」像を信じ込ませる。逆の場合もあるかもしれない。「親鸞」像が近い作家を信じてしまう。

それは言葉の意味のズレを感じながらも、そこに共通項を見いだせるということだ。宗教はそれを利用する。

歴史的解釈の相対性は、そのように起きる。例えば日本の戦争責任についても、議論する前に相手の思考を読んでしまい、お互いの持論を振りかざすだけになる。時間的変化は、それを明確にする。戦争経験者がいなくなると戦争への恐怖よりも名誉が重んじられてくる。それを強化するのも文化だった。

事実とは、歴史的事実とは、統治するものによって決定されやすい。裁判での事実。想定する事件の内容は、審判によって決定される。無論、その中に誤審があるのだ。法によって統治される歴史的事実は、覆されることもある。日本の敗戦によって覆されたように。

真実は、正しいとされる人が述べる確信である。それは事実ではないかもしれないが、その数によって決定されることはありうる。


第5章 共同体の絆

集団責任の絆は、戦争世代は語り継がれた物語によって強化されるが、非戦争世代はその物語を失っている。民族の同一化がおこなわれる物語化は、文化によって影響される。

契約としての集団責任。社会契約論。マックス・ヴェーバーの政治共同体。日本という国家の中にある限りその共同体を避けることは出来ない(亡命しろということか?)。日本という共同体に縛られている。

第6章 開かれた共同体概念を求めて

結局、倫理ということなんだろう。神に変わるもの。著者の立場はアーレントに近いのかもしれない。ただ考察が西欧的な哲学論理で組み立てていく保守化のような気がしないでもない。結局は人は自由ではいられず縛られることが必要なのだという。マゾヒズムなのか?



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