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一度目は悲劇で二度目は喜劇という人生悲喜劇(人生いろいろ)

『失われた時を求めて〈7〉第四篇 ソドムとゴモラ〈2〉』マルセル プルースト , 井上 究一郎 (翻訳) (ちくま文庫)

ソドムがシャルリュス、ゴモラはアルベルチーヌ――そして小説全篇の根幹をなす「心情の間歇」が前巻につづいて、第二の展開を示す。

バルベックからラ・ラスプリエール荘(ヴェルデュラン家別荘)まで、軽便鉄道の道行

バルベックのラ・ラスプリエール荘のヴェルデュラン夫人サロン行く語り手。軽便鉄道で途中駅で人が乗ったり降りたり、けっこう錯綜としている。日本の古典文学で「道行」という近松門左衛門の心中もので有名な語りの手法があるのだが、ここでは心中はないので、紀行文的な「道行」だろう。『土佐日記』みたいな紀行文として読めばいいのか?100ページぐらい。

軽便鉄道は、バルベック→ドンシエール→グランクール=サン=ヴァスト→アランブーヴィル→サン=ピエール=デ=ジフ→ドゥーヴィル→ドゥーヴィル=フェテルヌという経路から。あとは馬車でラ・ラスプリエール荘に至る。

バルベック駅で語り手とアルベルチーヌが乗り込むのです。前巻からの登場のニッサン・ベルナール氏がいる。ニッサン・ベルナール氏はとは?ブルジョア階級の人で、日産の元社長カルロス・ゴーンを連想する(笑)。この人も同性愛者。相手はトマト一号とトマト二号。渾名だ。バルベック・ホテルの給仕エメの目撃談でニッサン・ベルナール氏が殴られたのだ。トマトと渾名の若者に。だから語り手顔を合わせたく風に装っていた。

ドンシエールでサン=ルーに会いに行く。アルベルチーヌがサン=ルーに興味津々でしたけど、サン=ルーは礼儀正しい貴族だから友達の彼女を取ろうとはしない?このときは軍人でもあったので、それとなくホモっぽさも感じてしまう。アルベルチーヌのしたたかさが出ていると思います(語り手とサン=ルーを天秤にかける)。その後にモレル(若いヴァイオリニスト)を伴ったシャルリュス氏登場。

グランクール=サン=ヴァストでコタールと落ち合う。ブリショ登場。彼はは典型的なスノッブな学者、知識ひけらかしの大学教授で土地の名前に詳しい。そいういう大学教授いるなと思って最近読んだ本がそんな感じだった。彫刻家のスキー登場。ヴェルデュラン夫人評では、エルスチール以上の芸術家だという。ただ語り手はヴェルデュラン夫人をスノッブな人だと思っているからスキーもその程度の人。

グランクールでサニエット登場。ヴェルデュラン家から追放されたが、また復帰したという。サニエットも古文学者でブリショと混乱する。ヴェルデュラン夫人がそいういう大学教授が好きなのだ。コタールもそのような医者で、専門知識しかない退屈な男として描かれる。貴族のサロンではエスプリが通用したが、ここでは言葉通りに受け止められしまう。
シェルバトフ大公夫人の話題(メーヌヴィル駅から乗ってくるはずが見逃してしまう)。ドゥーヴィルで落ち合う。

サン=ピエール=デ=ジフで若い女をナンパしようとするが失敗!

ラ・ラスプリエール荘はカンブメール家が所有していた。貴族の没落でブルジョアであるヴェルデュラン家が借りたが買い取ろうという話も出てくる。
ブリショの地名学。

ヴェルデュラン夫人のサロンは、「スワンの恋」に描かれたときのような優雅さはなく、ヘーゲルの歴史についての言葉(後にマルクスの言葉として印象付けられた)「一度目は悲劇で二度目は喜劇だ」のパターン。ヴェルデュラン夫人にとっては、「スワンの恋」の頃が絶頂期でそれをスワンとオデットによってサロンを破壊された。シャルリュス氏の老いの化粧の病者とか『ベニスに死す』を思い出させる。

第三章

今回はシャルリュス氏の巻と言ってもよく、悪徳(ゲイであること)の限りで奔放していく様子が描かれる。しかし、シャルリュス氏の魅力でもあるように思える。サロンでは悪徳の魅力というか、それで一目置かれる存在になっているのだ。彼がゲルマント家の貴族である以上に。つまりブルジョアジーによる貴族社会の破壊性を持った人物として歓迎されているところがあるのかもしれない。悪徳(ゲイ)の魅力というか。芸術方面では、感性が鋭いと思われているのかもしれない。マツコ・デラックスの魅力というような。

ヴェルデュラン家がブルジョアの典型的振る舞いがこの別荘にある。ヴェルデュラン家が貴族のカンブメール家が所有していた別荘を手に入れたということなのだ。その庭をヴェルデュラン夫人好みに変えてしまったことに、カンブルメール夫人は悲しむ。

シャルリュス氏はブルジョアのヴェルデュラン家のサロンを混乱させることで、貴族階級の一矢(一夜)を報いた形になるのだろうか?カンブルメール夫妻との対立とヴェルデュラン夫人の老いの間で、語り手は社交界の貴公子的存在になったのだ。かつてのスワンのように。

バルベックでアルベルチーヌの送り迎えに自動車が使われている。一年前は、馬車の時代?だった。馬車の使用人を御役御免にして、自動車の運転手に変えたり(ヴェルデュラン家)、それと飛行機も出てきて(ベル・エポック!)、泣いてしまう語り手だった(突然なんで驚いたがプルーストの愛人が飛行機事故で死んだとのこと)。エルスチールの絵は、ギュスターヴ・モローの絵という解説。神話世界を描いている画家(背景を言うところが語り手のスノッブなところか?)。

語り手のアルベルチーヌに対する嫉妬は、「スワンの恋」のスワンと比べられるだろうか?あれだけ親友ヅラしていた、サン=ルーも遠ざけてしまう。もっともサン=ルーはヴェルデュラン夫人のサロンは好きではないのだが。そこがブルジョアのスノッブの集まるところという感じなのかもしれない。

そういえばアルベルチーヌのために浪費する語り手に対する母上の小言も出てきた。いかに語り手がブルジョアなのかとわかるエピソード(なにしろアルベルチーヌためのお抱え運転手も用意するのだから)。それでいてアルベルチーヌの愛はないと断言する。お飾りの女だった。

クレシー伯爵というまた面倒臭い人が出てきたと思ったら、スワン夫人と関係ある伏線だった。スワン夫人はオデット・ド・クレシーという名のココットだったのだ。

終わり近くは、また軽便鉄道の描写になり、久しぶりにブロックが登場。ブロックは語り手の親友なのだが、サン=ルーよりも身近に感じるのは出身階級による親しさだろうか?お互いに遠慮なくものを言い合える仲なのだ。だからサン=ルーのように警戒心もない。アルベルチーヌに対しての嫉妬はサン=ルーは起きるがブロックには起きない。そしてブロックは何故かシャルリュス氏に狙われていた。

シャルリュス氏は、ヴァイオリン奏者のモレルとの関係で茶番劇(決闘騒ぎでモレルを従わせる)を演じたにも関わらず、モレルに避けられてしまった。その後釜がブロックというのだろうか?

第四章

アルベルチーヌの性向について重大なことが(語り手に取って)発覚。それはかつての作家であるヴァントイユの娘のレズ友と関係があったようなのだ。お姉さん関係。その乱れた関係がこの「ソドムとゴモラ」という題名を表していた。

一方語り手もアルベルチーヌは結婚相手には成り得ぬと考えてその親友に手を出していた。どっちもどっち。青春時代は後から考えるとこんなグダグダな関係って案外多いのではないだろうか?相思相愛ですと言い切れるカップルでも隠し事はあるだろう。それが人間というものだと思う。それを悪徳というが......

最後のママの言葉がいいというか、とんだマザコン野郎で、やはりこれは人間喜劇なんだ。そして、母にアルベルチーヌの結婚を言い出す語り手だった。こうも波乱万丈だと島倉千代子の「人生いろいろ」聞きたくなる。



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