短歌の季語、俳句の季語
『短歌 2023年3月号』
【大特集】なぜ短歌には季語がないのか
これは短歌に季語がないわけではなく、俳句の季題とは違って季語を立てる必要もないということで季節を読んでいる歌は「万葉」の和歌から数多くある。『古今集』や『新古今集』などは四季で分けられて和歌が詠まれている。
俳句では季語は挨拶や己自身よりも対象としての花鳥諷詠を詠むものだから、季語が季題として扱うことによって共感性を得る。短歌は逆に個人を詠む(そうでない場合もあるが作中主体といわれるように、主に人が主体となる)ので季語は述語的に語られる。それを「本意」とか「本情」とか言うようだ。
「春の日」の本意は「春のうららかな明るい光の日中」という意味が「麒麟のやうな」と明るい生を持つ比喩で語られる。
また俳句は音数が十七音のため細部までは表現できないので季語の力を借りて共感性を得る。
また、𠮷田竜宇「有季定型という約束」では 俳句と短歌の季語の違いとして比較して上げているので参考になる。
共同連作「九龍の夢」
は、連歌スタイルで物語のように短歌を連ねていくのだが、一首づつ交互でもなく二首だったり三首だったりするのは、それぞれの世界観を明確にできるからかなのか?ただ二人の作風はなんとなく似ているので火花散らすという感じではなく、まあ恋歌なんで、そうなのかなと思うが異性愛ではなく、同性愛的だろうか?
連載「かなしみの歌びとたち…坂井修一」
中城ふみ子だが『乳房喪失』が「短歌研究」の編集者であった中井英夫の意向が大きく影響して、スキャンダラスに詠まれているが、中城ふみ子の本来の短歌の形は「花の原型」のような冷静な客観的叙情性にあるとする。与謝野晶子の劇場型から岡本かの子の母性愛というような。
でもスキャンダラスなふみ子の方が好きだな。