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「手弱女」から「もだえ神」への短歌

『女性とジェンダーと短歌―書籍版「女性が作る短歌研究」』水原紫苑編集

短歌専門誌「短歌研究」2021年8月号で話題となった特集をさらにバージョンアップして書籍化。全54人の新作短歌、11人の寄稿、馬場あき子×水原紫苑・対談などに加え、大森静佳、川野里子、永井祐、東直子、水原紫苑、穂村弘(司会)による座談会を掲載。

目次
作品(五十音順)(大森静佳「ムッシュ・ド・パリ」(百首)
小島なお「両手をあげて、夏へ」(百首))
寄稿(五十音順)
対談 馬場あき子と水原紫苑(司会=村上湛)「歌と芸」
作品 大滝和子「素粒子と母」(三十首)
作品 水原紫苑「片足立ちのたましひ」(五十首)
対談 田中優子(前法政大学総長)と川野里子(司会=水原紫苑)「女性たちが持つ言葉」
作品 紀野恵「長恨歌」(五十首)―詩・白楽天「長恨歌」より/歌・紀野恵
座談会 「現代短歌史と私たち」(大森静佳/川野里子/永井祐/東直子/水原紫苑/穂村弘(司会))

図書館本。短歌が和歌から来ている「和する歌」ということを踏まえて座談会にしても短歌をやっている人からどう外部に伝えていくかが今問題になっているのだと思う。「ジェンダー」というのは文化的に作られた性差のことで、和歌が『万葉集』の益荒男振り(マスオさんぶりじゃない)から『古今集』の「たをめやぶり(手弱女)」となる過程で女歌の方向性は恋歌という風に誘導されていく。それは漢詩が政治を読むのに対して、『古今集』はあまり詠んでは来なかった。詠んではいるが天皇制肯定の歌中心で反逆の歌というのは殆ど見られない(『万葉集』にはあったが)。

例えば和歌では本歌取りの手法がある。それは伝統芸として結構受け入れられてきたと思うのだ。最近の傾向として内輪の中で真似る短歌は内輪では受けがいい、それが「たをめやぶり(手弱女)」を現しているのではないかと思うのだ。

大森静佳『ムッシュ・ド・パリ』はユゴーの小説や評論から革命とベルサイユとパリを詠んでいるのだが、ベルサイユ世代(『ベルサイユのばら』を読んでいた世代か?)の母とユゴーで学んだ世代との齟齬があり、それはパリ観光の中で猶予されるのであるが日本に帰ってみればコロナ禍になっていて死の世界が待ち受ける。それは母と娘の葛藤の中で断罪すべくギロチンとなる娘世代のジェンダーなのかと思う。

小島なお『両手をあげて、夏へ』もかつての青春短歌のイメージ(例えば寺山修司)を感じさせながらも、すでに大人にならなければならない自己へのためらいと二次元の世界に逃避していく分裂した自我がある。

ここで重要なのは母なる世代から娘の世代で「産む性」というジェンダーがテーマになっているのだと思うのだ。

あるいは、他の作品を読んでみても自己撞着した作品であるか、他の分野の本歌取りをしている作品がある。自己撞着も自我(先行する短歌)というある種のパターンを本歌取りしていく短歌なんだろうと思う。

小池純代の「十韻」は空海の『三教指帰』を本歌取りとし、佐藤弓生「はなばなに」は俳句や短歌を本歌取りしていたり、菅原百合絵「花咲く乙女たち」はプルーストを。極めつけは紀野恵の白楽天『長恨歌』を本歌取りした「長恨歌」であろうか?

堀田季何『世界文学としての短歌の可能性』は短歌は世界文学になりにくい傾向があると指摘する。それは短詩というのは俳句ですでに成り立ち、その中に切れや季語という縛りのゲーム性がある。短歌では一応五行詩とされているのだが、それは短詩との差異のなさや、短歌のように日本で培ってきたものが外国人にどう理解されるのか?という問題。すでに古典の翻訳はなされているが短歌を詠む外国人というと数が限られてしまう。

例えばリービ英雄が『万葉集』を翻訳したときに美智子妃が「枕詞」が理解できて?とか言ったとか(言葉はもっと柔らかな言い方だったが)。まあ、日本文学は原文が理解出来ないと駄目だというような原典主義があるのだが、一方でウェイリー訳の全く違う『源氏物語』もあるわけで、文学の面白さならば後者だと思うのだが。

それで短歌の「たをめやぶり(手弱女)」をどうジェンダーとして超えていくかと考えたときに石牟礼道子「もだえ神」というのはかなり有効なのかもしれないと思った。石牟礼道子が積極的に水俣病に関わるなかで「もだえ神」を発動させる巫女的な役割は、小池純代、佐藤弓生、菅原百合絵、紀野恵にしても先行する他者に「もだえ神」を発動しているわけで、それがどう他者に伝わるかだろう。それがあまりにも独りよがりだとオナニー的な自慰と変わらないのだ。


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