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文芸批評から現代思想を見渡すような本

『文学とは何か――現代批評理論への招待(上)』テリー・イーグルトン , 大橋 洋一 (翻訳)(岩波文庫)

欧米の文学理論の諸潮流を初心者にも分かりやすく解説するすぐれた入門講義.上巻では文学理論が対象とする「文学」とは何かを問うことから始め,十九世紀の英文学批評の誕生,現象学・解釈学・受容理論,構造主義と記号論について詳細に論じる.明確な視座に立ち,読者の思考を刺激し触発する,「二十世紀の古典」.(全二冊)
序章──文学とは何か?
第1章 英文学批評の誕生
第2章 現象学、解釈学、受容理論
第3章 構造主義と記号論

序章──文学とは何か?

客観的に「文学とは何か?」とは問えないという。その時代時代に言われる文学というもの。例えばマルクスやヘーゲルの哲学書が文学と言えないのは何故か?酔っ払いが書いた手紙をどう文学と区別しているのか?シェイクスピアが偉大な文学だとして、これから先読まれなくなることはないのか?

時代的な社会的価値として文学と読んでいるもののあやふやさ。ルソー『告白』は哲学書より文学だと思うのだが、それはいつからなのだろう?何故「小説」の始まりと言われているのか?

社会的な構造の中によるイデオロギーによって文学は評価されている。それはジョン・ダンの詩をテリー・イーグルトンが嫌いだと言っても問題にならないが、文学ではないと言おうものなら、今の職業(大学教授)を失職する。

文学は、昆虫が存在しているように客観的に存在するものではないは、もちろんのこと、文学を構成している価値判断は歴史的変化を受けるものである。そして、さらに重要なことは、こうした価値判断は社会的イデオロギーと密接に関係しているということだ。イデオロギーとはたんなる個人的嗜好のことを指すのではなく、ある特定の社会集団に対して権力を行使し、権力を維持していくのに役立つもろもろの前提のことを指す。さてこれが、あまりにも突飛な結論だ (テリー・イーグルトン(翻訳)大橋 洋一 『文学とは何か』)

第1章 英文学批評の誕生

産業革命以後、個人主義によって宗教的繋がりが無くなってしまったので、それをロマン主義文学(詩)に求めるという運動が、新古典派といわれるようなT.S.エリオットらの美学的な難解な象徴詩が書かれる。その背景は個人主義が横行し、キリスト教的な信仰心的なものを詩の力(古典世界へ統合する精神というような保守的な運動)復活させようという運動だった。

それは長編小説ではなく、架空の詩のイメージする象徴世界をロマン主義(古典の精神性)に解釈するということで失われていく宗教心を補うイデオロギーとして超保守的な運動(個人を普遍性(道徳性)という中に解消する)となっていく。批評家・詩人マシュー・アーノルド。

しかし、それは特権階級のエリートの言葉として、大衆の言葉(散文)と区別するものだった。次第に精神の崇高さというような実体のない旧社会を求めていく。植民地を拡大させる帝国主義的権威として振る舞っていくアカデミー(英語文学)は、第三世界、女性、労働者階級を差別していく。

ロマン主義的詩の解釈は短い詩ならば可能だが次第に長編小説の散文では「精密な読解」は出来なくなる。アイヴァー・アームストロング・リチャーズの「ニュー・クリティシズム(新批評)」(「作品」のメッセージ重視)。詩を物神(フェティシュ)に変える。

第2章 現象学、解釈学、受容理論

フッサールの現象学からハイデガーの実存主義、サルトルの「文学とは何か」に繋いで、バルトの『テクストの快楽』でそれまで作者→作品と解釈学が精密さを持って展開されていくのだが、バルトによって「読者」の重要性。

ハイデガーは解釈に精神を持ち込んで、歴史よりも自己の時間による変容が個人の実存を精神性(ドイツ精神といような)に投機する。それはナチスと親和性が高い。なぜなら歴史を問題にせず、精神史の問題だから(例えばヨーロッパ精神の理想系というような優生思想に利用されやすい)、それは架空のユートピア=他者のディスピア世界を形作ってしまう。それは日本の文壇でも大きな国家主義という渦に個人が巻き込まれいく歴史だった。

それは読者が受容することによって文学が新たに開かれるという可能性。それはフォークナーが南部アメリカに閉じ込めらた文学ではなく(フォークナーの中にある父性的なものやキリスト教的な概念を超えて)、その後の展開としてラテン・アメリカ文学や日本の作家にも影響を与えていく。

大江健三郎は文学のバトンという言い方をしていたが、そういう可能性のある文学としてバルト『テクストの快楽』の重要性。それは読者に異化作用をおこさせ読むものを変えていく双方向による働きかけなのである。批評がそういう役割を持っているのは言うまでもない。

第3章 構造主義と記号論

ここまで来ると現代思想だった。ソシュールとかレヴィ=ストロースとか何度読んでも難しい。構造主義は作者も社会的な影響下のなかでイデオロギーを持っているということでそれを科学的に分析していくのだが、詩的言語というメッセージよりもフォルム(形式)によって想像的世界を提示すること。言葉ありきの世界。

ロシア・フォルマリズムの記号論からバフチンへのポリフォニー論は、大江健三郎で読んだ気がした。結局、宗教でつながっていた共同体の夢を文学で提示していこうということなのか?まあ呪術としての詩的言語はそういうことだよな。古典主義という伝統を掘り起こすほど保守主義的になっていく。

ジェラール・ジュネットの「物語ディスクール論」はほとんど創作理論のようだった。筒井康隆が『文学部唯野教授』を書いたのもわかる気がした。やっぱそっちを先に読むべきか?

物語ディスクール論

物語とプロット。ロシア・フォルマリズムからくる二分法。

推理小説の場合、殺人事件から解明という実際の物語と逆のプロットを辿る。時間の非可逆性のストーリーを逆手に取ったプロットだが、そこに解決という理想世界が存在する。

物語分析の中心的5つのカテゴリー。

プロレプス(先説法、期待)予め未来を予測(予言)して語る。
アナレプス(後説法、フラッシュバック)過去を挿入(エピソード)する。
アナクロニー(錯時法)ストーリーとプロットの不協和(錯綜、錯誤)を示す。時間を逆行することから来る錯綜。アナクロニズム(時代錯誤)
 1.「持続」物語のエピソードを簡略化として示すか、エピソードを拡大化として示すか。要約。小休止。
  2.「頻度」物語の中に一回限り起こったことなのか?繰り返されるのか?一回しか起こらなかった物語を何度も繰り返す語る(フォークナーか?)
叙述
 1.距離、物語行為と事件の関係性。物語の語り手問題(信用されない語り手)、物語の再現(表象)する問題なのか?直接話法なのか、間接話法なのか、自由間接話法(直接話法の中に引用や他者の言葉を聞き書きとして語る)
 2.パースペクティブ(視点)語り手は登場人物の外側に立つ。情報量が登場人物より多い場合と少ない場合。あるいは同一である場合。「焦点化ゼロ」は全知の語り手。「内的焦点化」は、登場人物による情報量の違い。
」「物語行為時間」と「物語られている時間」
事件の後の出来事なのか前なのか、語り手はその世界に含まれていない「異質物語世界」なのか、「等質物語世界」(一人称による自分語り)、「自己物語世界」登場人物までも語り手が造形してしまう。

物語行為と物語の差異を読み取る。語り手「私」のパラドックス(逆説)。第5章で詳しく述べる。

構造主義は、脱神秘化を担う。神秘化される精神や伝統と対決を余儀なくされる。しかし、それが権威(アカデミー)となる場合もある。



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