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敗者へのレクイエム

『暗い時代の人々』ハンナ・アレント, 阿部 斉 (翻訳) (ちくま学芸文庫)

レッシング、ローザ・ルクセンブルク、ヤスパース、ヘルマン・ブロッホ、ベンヤミン、ブレヒト…自由が著しく損なわれた時代、荒廃する世界に抗い、自らの意志で行動し生きた10人。彼らの人間性と知的格闘に対して深い共感と敬意を込め、政治・芸術・哲学への鋭い示唆を含み描かれる普遍的人間論。『全体主義の起源』、『人間の条件』、『革命について』といった理論的主著を側面から補うにとどまらず、20世紀の思想と経験に対する貴重な証言として読まれるべき好著。

ハンナ・アーレントとの文章はエッセイと言えども難しいのは、逆説的な論理が多いからだろうか?アーレントのユダヤ性とヨーロッパの哲学的伝統は無視できないものである。そこに宿るユダヤ人に対する親和性や敗者となった者の共感性が論理を超えてあるような気がする。しかしアーレントは感情に流されるのは、ファシズムへのポピュリズムにつながることからなるべく理知的であろうとするかのようだ。

例えばブレヒトへのエッセイは、最初、否定的に描きながらそこにあるベンヤミンへの思いを汲み取るなど、そこには文学的な感情が露わになるようである。

ただアーレントは論理哲学の人なのでカール・ヤスパースのエッセイが一番彼女に近いのだろうか?師匠だしね。

暗い時代の人間性―レッシング考

ハンナ・アーレントがレッシング賞(ハンブルグ)受賞時の演説。

ゴットホルト・エフライム・レッシング
ドイツ啓蒙主義を代表する劇作家・批評家・思想家。フランスの古典主義を脱し、シェイクスピアをドイツに根づかせるなどして、レッシング以降のドイツの演劇と文学の方向を決定した。美学論文 『ラオコーン」、喜劇『ミナ・フォン・バルンヘルム」、『ハンブルク演劇論』、悲劇『エミーリア・ガロッティ』など。劇詩『賢者ナータン」は、聖書を最終審とするルター正統派の牧師ゲツェとの宗教論争(フラグメント論争)が過熱して、宗教関係の出版を禁止されたので、レッシングが論争の続編として自分の思想を書き込んだ戯曲。

アーレントがハンブルグ市から与えられた賞(世界─内─存在)を通して、レッシングの「賢者」を考える。レッシングは当時のドイツで全ての人に受け入れられたわけではなかった。むしろ拒絶された人の批評というものを通して世界内に存在し続けた。

レッシングはその世界に於いてけっして和解しよとしたわけではなく、世界の偏見に対して、情念の「怒り」と「笑い」で持って対処して行った。それは彼の美学としてアリストテレスの哲学とは対称的に(世界の)恐怖に対する憐れみを持って観客に演劇(芸術)という手法で彼の哲学を提示していったのだ。

それはキリスト教社会に於いて公益として、彼の芸術を提示していくことで、哲学と芸術から分離していく精神を、彼は世界の側に立ち、孤立無援の精神でありながらそこに人々の共感性を求めた。人々を啓蒙していくという批評という手法で、権力の強制や歴史から自由な思考を獲得した。

「私は私が創り出した難問を解決する義務に拘束されているとは思わない。私の観念は常にある程度の分裂しているかもしれないし、あるいは相互に矛盾していることさえあるかもしれない。それでもなお読者は、こうした諸観念のなかに自力で思考するようにうながす素材を見出すであろう」

レッシングの自律的思考はけっして閉じてはいず、公衆の面前に開かれて論議されるものである。それは、歴史が公的領域の光が失われつつある世界(独裁者の世界)の中にあって、相互理解の人間として存在することであった。それは『賢者ナータン』の中に描かれるテーマ「人間であることで十分だ」「私の友人であれ」という基本的人権に基づいたものであった。18世紀にあってそれを唱導する人は偉大でありもう一人の偉大な哲学者ルソーと並び称される。

われわれの世界が迫害された圧政の中でも身を寄せ合い、そうした世界に「人間性」を求めること。例えばユダヤ人の中に反ユダヤ性や親ユダヤ性以前に人間である友人として友情を持つことがレッシングを思い出させるこtである。それはプラトンに時代に問われた「人間愛」よりも重要なものである。それは愛が反転し憎しみを増すよりも隣人としての友情を育むナータンの知恵はカントの道徳(倫理)哲学とも共通するものである。

ローザ・ルクセンブルク──1871─1919

J.P.ネトル『ローザ・ルクセンブルク』の伝記本の書評として書かれたエッセイ。アーレントが捉えたローザの姿を伝えている。彼女がポーランド出身のユダヤ人であった為にドイツ左翼運動の中では無視されがちだった。

「彼女はアウトサイダーであったが、それはただ彼女が嫌悪した国のなかで、しかもやがて軽蔑せざるおえなくなった党派のなかでポーランド系ユダヤ人としてあり続けたからというだけでなく、彼女が女性だったからである。」

それはもう一つ女性であるということも「喧嘩好きな女性」としか見られることがなかった。そうした反動として彼女の手紙が世に出ると女性らしさの中に閉じ込められることになる。彼女の理路整然とした論理を読み取ることはない。

それはレーニン主義に対して彼女が加えた批判を見過ごしてしまった。「スパルタクス団」(急進的なマルクス主義者)の一員として、「スターリン主義」的な者たちから抹殺せねばならない存在だったのである。

アンジェロ・ジュゼッペ#ロンカーリ―ローマ教皇ヨハネス二三世

私はキリスト教徒でもないのでローマ教皇がどれぐらい凄いのかわからないが、キリスト教国では絶大な影響があるのだろうということはわかる。ローマ教皇がなくなると選挙(コンクレーベというかなりユニークな選挙)をするというニュースも伝わってくる。

ただここ最近の教皇は知っているけど、その他大勢は誰?となる。このローマ教皇ヨハネス二三世も全然知らなかった。それより二三世ということはヨハネスが23人もいるのだよ。混乱するよ。影響はないのだが。

最近の教皇は、映画にもなっているから少しは知っていた。

また、ローマ教会内でのスキャンダル映画もあることから、どこの世界も同じなんだと感動することがない。

しかし、ここでハンナ・アーレントが引き合いに出すのはドストエフスキー『カラマーゾフの兄弟』のイワンなのだ。イワンの純真さと言ったほうがいいのか?ちょっと持ち上げ過ぎだろうとは思う。

ただアーレントにとってはナチスがローマ教会に協力を求めたときに、ユダヤ人の虐殺問題を上げて拒否したということ(当時は噂ぐらいでしか知られておらずユダヤ人問題についてはみんな沈黙をしていた)。コンクラーベで選ばれたのも本命候補ではなく、つなぎだろうと思われていた(高齢で六年間の短い期間だった)が当時は戦時・戦後だけに重要な位置にいた教皇なのである。

カール・ヤスパース―賞賛の辞、カール・ヤスパース―世界国家の市民?

「カール・ヤスパース―賞賛の辞」はドイツ書籍平和賞を受賞したときのエッセイで「カール・ヤスパース―世界国家の市民?」もう少し深掘りしたヤスパースの哲学の概要か。アーレントはヤスパースの弟子(教え子)だった。最初の文では「公的領域」ということが言われてこういう賞を取ることも公益性なのかなとも思う。ただアーレントの言説は専門用語が多く読むのに苦労する。「フマニタス」なんて聞いたこともない言葉が何かと思ったらローマ時代の「ヒューマニズム」の源流になった言葉のようだ。ヒューマニズムでいいと思う(ざっくばらんに)。

「カール・ヤスパース―世界国家の市民?」「世界国家」はコスモポリタン的思考で、最近ではグローバリズムなのかな。その反動としてナショナリズムが起きているのだが、ヤスパースはヘーゲルの歴史観の上にカントの政治性を導入するというかカントの『永遠平和のために』(国連の理念となった)を導入することではなく、さらにカントの理性(理念)では解決できないとしているのだった。それがアーレントのアメリカのプラグマティズムなのかなとも思う。

実際にプラグマティズムの方法論はこのエッセイの中には示されていないのだ(それは哲学書になってしまう)がアーレントが上げるのは軍縮と核兵器廃絶だろうか。

アイザック・ディネセン―1885─1963

本名、カレン・ブリクセン、デンマークの女性作家だが、女性というのを隠すためにIsak Dinesenと名乗った。デンマーク読みでは、イサク・ディーネセンが正しく英語読みでアイザック・ディネセンとなってしまったらしい。調べたらイサク・ディネセン『アフリカの日々 』(河出文庫)が積読になっていた。

女性なのに男性名で書いていた作家は、、ジョージ・エリオットやジェイムズ・ティプトリー・Jr、 J・K・ローリング(ロバート・ガルブレイス名でミステリーを書いていて、女性とわからぬようにイニシャルにしたと)(ブロンテ姉妹も男性名を名乗っていたという)。『鬼滅の刃』の作家吾峠呼世晴も女性だったという今回知った(漫画界には多いらしい)。

そのイサク・ディネセンのレビューのような作家紹介エッセイ。『アフリカの日々 』は、シェヘラザードのような囚われの身で、シェイクスピアを引用する物語を語り継がなかければならなかった貴族の愛人として、生活の為に物語を書いていたという。植民地のファンタジーとして、彼女の『失われた時を求めて』が『アフリカの日々』のような気がする。それはデュラスが描くインドシナと似ているのかもしれない。

彼女は別の小説『夢見る人』の中で「ラ・マンチャのドンナ・キホータ」という人物を登場させている。


ヘルマン・ブロッホ―1886一1951

難しいエッセイだ。ヘルマン・ブロッホがよくわからない作家でもあるからなのかもしれない。彼とアーレントをつなぐのはユダヤ人であることと文学に不可能性を感じて哲学に移ったことなのかな。

彼の代表作『ウェルギリウスの死』は、古典主義文学の中に可能性を見出すものとして、ジョイスの影響などを受けた意識の流れで書かれた芸術のための芸術。それをメタフィクションと理解するのだが、彼はそういう方向性を否定していく。それは、カフカの挫折を論じた評論に出ていると思う。

「カフカは、新たな宇宙論、すなわち文学への愛と、また文学への嫌悪と闘いながら、さらにいかなる芸術的方法も積極的には不十分と感じながら、創り上げざるえなかった新たな神統記を予感しつつ文学の領域を離れる決意をし、彼の作品は破棄されるべきか否かを、かれに新たな神話的概念を与えた宇宙のために問うたのである」

カフカが破棄するよう求めた原稿は、ブロートによって拾い上げられブロート編集の元で神話的価値を与えられてヒットしていく。それは大衆文学化されたカフカの根源的な詩神を排除するものとして、ナチスの思想に同一化していく。それがブロッホが描こうとした『大衆心理学』のような気がする。

ブロッホが開示していく知の認識論(哲学的思考?)は、文学とは(大衆文学を念頭に置いているのだと思う)乖離するものでそれは自己同一性(芸術の芸術や文学のための文学というような決まりきったこと)から自我を世界の方に開く試み(超越論システムの内に)、それは(神の)公的領域のよる人間の救済であるという、なんとも難しい試みをした作家であるという。

その背後にユダヤ教(性)の哲学があるのは間違いなく、たぶんアーレントが惹かれていく部分もそこなのだと思う。超越論的な知の体系、それは「倫理的欲求」と言うように文学では救済されないものであったのだ。

文学が「認識における絶対的なものへの義務」を満足しうるかどうかを疑い始めたとき、かれは究極的には文学を放棄せざるをえなかったのある。とりわけかれは、文学と認識とが、何が必要とされているかという知識から、必要とするものの救済へと、かつて跳躍することに成功したことがあるかについて疑い始めていた。

ヴァルター・ベンヤミン―1892―1940

ベンヤミンの「侏儒」は、間違いを犯したときにユダヤ人は「侏儒」のせいにする。それをベンヤミンは母親に言われた時に侏儒側に立って共感した。それはユダヤの伝承(タルムードか?)なのだろう。ユダヤ人が小さいときからタルムードのような説話を聞いて育つのは、カフカの文学でもそうした説話が元になっている場合があるような。そして、ベンヤミンはユダヤの賢人たちより、失敗する人の側に立つということ。しくじり先生のことだった。

こびとを侏儒と書くのは、中国から伝わってきた言葉で、芥川龍之介『侏儒の言葉』はビアス『悪魔の辞典』の影響を受けたものだと言われているが、ベンヤミンにも近いような気がする。調べたらベンヤミンと芥川龍之介は生まれた年が同じだった。芥川も説話文学を元に彼の文学を構築した。ただ芥川はカフカの方が近いかもと思ったのは、この後に続く、アーレントが論じるベンヤミンが論じたカフカ論を読んだからだった。

ベンヤミンのしくじり先生(先生にもなれなかったんだが)は、大学の論文の冒頭に引用を6つ重ねて提出したので、大学教授は理解出来なかった。

「ほかに誰にも.........もっとすぐれた、あるいはもっと適切な引用句を集めることは出来ない」

ベンヤミンのしくじり先生。

ベンヤミンの精神生活は、ゲーテによって、すなわち哲学者ではなく、詩人によって形成だれ、鼓吹されたこと、彼は哲学を学んだけれども、彼の関心はほとんどもっぱら詩人と小説家によって喚起されたこと、

マルクスの哲学を学びながら形而上学興味よりも形而下の対象に興味を持った。それはマルクスの言う上部構造を直接「物質的」下部構造に関係づける。ベンヤミンはプルーストについでカフカに対して個人的親近感を抱いていていた。

「こうした失敗者の環境は多種多様である。ただ、ひとたび彼が結局は失敗に終わるであろうと思い始めたら、その途上であらゆるものが、ちょうど夢のなかでのように、かれを失敗させる方向に働きはじめると言ってよかろう」(ベンヤミン「ショーレムへの書簡集」)
「実人生ではうまく生活できぬものも、自身の運命に絶望するのを多少なりとも避けるには片方の手を必要とするが、.........もう片方の手でかれが廃墟のなかにみるものを書きとめることはできる。他人とは違うもの、他人以上のものをみるからだ。それにしてもかれは生きているあいだは死んでおり、本当の生き残りなのだ」(カフカ『日記』)
「難破船のこわれかけたマストの先端にまでのぼり、ようやく沈まぬようにしているもののようだ。しかしかれにも自分の救助信号を送るチャンスはある」(ベンヤミン「ショーレムへの書簡集」)

中森明菜「難破船」でしょうか?

ベンヤミンが「難破船」に例えたのは自身が彷徨えるユダヤ人として目的地も見いだせず沈みゆく運命を感じていたからでしょう。ユダヤ人としてはイスラエルという建国の夢をシオニストたちと共有出来なかった。それはカフカの文学で見られるような父の世代(トーラやタルムードを信じているユダヤ教徒)裕福なユダヤ人よりは、無力な失敗者としてのユダヤ人であろうとした、それは難破船のマストの上まで登って見極める者なのである。

カフカが抱えていたドイツのユダヤ人問題。カフカ文学の書くことへの不可能性の問い。

「三つの不可能性である」「まず書かないでいることの不可能性」「ドイツ語で書くことの不可能性」「他の言語で書く不可能性」

カフカはインディッシュ演劇の身振りと躍動に魅了された。それがサーカスの登場人物であり、カフカの短編に出てくる小さきもの(人とは限らない、言葉を失ったものなのだから)たちなのである。

父は5ひろの海深く横たわり、
骨からは珊瑚が作られ、
目は真珠にかわった。
なきがらはさらに朽ちることなく
海神(わだづみ)の力により
ゆたかでふしぎなものとなった。
(シェイクスピア『テンペスト』第一幕第ニ場)

ベンヤミンが過去の書物から取り出そうとしたものは、すでに現在では失われた言霊なのかもしれない。かつては礼拝的価値であった詩的言語の世界。それはカバラ的な失われた世界を夢見る魂(新プラトン主義に見出される魂は、偽物かもしれない神の世界と違った世界を夢見る。グノーシス主義というもの)とされるもの。それが傴僂の侏儒が閉じ込められた地下壕で、やがて彼は翼を生やした天使になるのだ(「エヴァンゲリオン」ですね)。

「そして、ベンヤミンが選んだ二重の意味でのバロックは、カバラを通じてユダヤ主義に近づこうというショーレムの風変わりな決意とまさに対応していた。カバラはユダヤ的伝統によって伝達されず、また伝達不能なヘブライ文学の属しており、ユダヤ的伝統のなかでも余りかんばしくない評判を得ていた」
革命家と同じく収集家も「遠い未来の、あるいは過去の世界に通ずる道だけでなく、同時によりよい世界への道をも夢想する。そうしたよりよい世界では、たしかに人々は日常世界で与えられている以上に必要とするもの与えられてはいないが、しかしそこで事物が有用性という苦役からは解放されている」(ベンヤミン『著作集』)

中森明菜の「難破船」から元ちとせ「ワダツミの木」は、つながっているというフィクション(もう一つの世界)を信じることなのだ。


ベルトルト・ブレヒト―1898―1956

ブレヒトの東ドイツ時代、スターリンに捧げた詩について、エズラ・バウンドが反ユダヤ主義でムッソリーニのファシズムを支持したこと以上に重大な過ちを犯した。それは、エズラ・バウンドが狂人であったのに、ブレヒトは詩人であった。これは、かなり強い非難のように思える。エズラ・バウンドは一時期精神病院に入れられたのだが、今では評価する向きもある。むろんアーレントにとってはファシズム以上に反ユダヤ主義が問題なのだ。

ブレヒトの晩年に生じた詩人としての衰退は、すでに創作欲も衰えていたと見る。彼は失われた世代(ロストジェネレーション)であり、アメリカでの成功よりも理念を選んだ。そこがクルト・ワイルとの決別の理由だった。

ぼくらは、尻に据えてるものの、吹けばとんじまう世代、
耐久性では無期限保証の家におさまって。
(建てたものさ、マンハッタン島にはのっぽのビル街
 それに大西洋をもてなす細いアンテナだって)

都市は残らぬ、残るのは吹き抜けてった風、ばかり。
家ってものはごきげんなエサ、食う者は食いに食う。
ぼくらは知っている、ぼくらはさっさと行く者であり
あとへ来るやつらだってが、名もとおらねえご連中。
      (野村修訳ブレヒト『あわれなBBについて』より)

失われた世代はニヒリストではない。ブレヒトは上流階級よりは堕ちていく人々を選んだ。そこはベンヤミンがアメリカへの亡命を躊躇していたのと重なる。彼は社会主義国の体制には不満だったが大衆の中にいたかった。それが『あわれなBBがについて』の後に書かれた『暗い時代に生きる』人々についての詩である。

 ぼくが都市へ来たのは混乱の時代 飢餓の季節。ぼくが人々に加わったのは暴動の時代、ぼくは反逆した、かれらとともに。こうしてぼくの時が流れた。ぼくにあたえられた時、地上の時。
 戦闘のあいまにものをたべ、ひとごろしたちに混じって眠り、恋のときにも散漫で 自然を見ればいらだった。こうしてぼくの時が流れた ぼくにあたえられた時、地上の時。
 ぼくの時代、行くてはいずこも沼だった。ことばが、ぼくに危ない橋を渡らせた。ぼくの能力は限られていた。が、支配者どもの 尻のすわりごこちを少しは悪くさせたろう。こうしてぼくの時が流れた。ぼくにあたえられた時、地上の時。
..........きみたち、ぼくたちが沈没し去る高潮から うかびあがってくるだろうきみたち、思え、ぼくたちの弱さをいうときにこの時代の暗さをも、きみたちがまぬがれえた暗さをも。
.........ああ、ぼくたちは 友愛の地を準備しようとしたぼくたち自身は 友愛をしめせはしなかった。
.........思え、ぼくたちを ひろいこころで
           (野村修訳『あとから生まれるひとびとに』より)

ブレヒトは、かつてその地にいた死んだ友人たちについて、自殺したベンヤミンやデンマークに同行した愛人マルガレーテ、そしてカール・ゴッホがいる。

「もちろん、ぼくは知っている。ぼくが大勢の友達より生きのびたのは、ただ幸運によることを。それでも今夜夢のなかで、友達たちがこう言うのを聞いた。『強いやつが生きのびるんだ』だからぼくは、自分を憎む」

ワルデマール・グリアン―1903―1945

国際政治学者であるグリアンの追悼のエッセイ。かれはロシア出身のユダヤ人であり、彼の学業よりは人柄(友人との関係性)を描いた。

ランダル・ジャレル―1914一1965

アーレントと個人的親交が深かったアメリカの詩人についてのエッセイ。

ぼくは信じる──
      ぼくは確信している、ぼくは確信している──
ぼくが一番好きな国はドイツ語だということを

ドイツ語を学ぶには辞書なおいらない、
信頼と愛と、リルケを読むことで十分だ。



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