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戦争機械となる兵隊

『生きている兵隊』石川達三 (中公文庫– 1999)

これは戦争文学の傑作かもしれない。群像劇。石川達三の分身であるような作家風の男(編集者)と軍医と従軍僧、血気盛んな通訳の青年、ロマンチストと農民である隊長の部隊。一番兵隊として優れているのは農民である隊長なんだが、僧侶と医者の残虐さ。従軍僧はほんと思想もなく残虐なんだが、軍医は客観的に残虐。僧侶は信仰に基づくけどそれが仏教ではなく日本国家になってしまった。医者は冷静に戦争を客観視するのだが、最後に狂ってしまっう。日本人の芸者をピストルで撃って憲兵に逮捕される。しかし未遂だったので再び軍隊に戻される。ベトナム戦争時のアメリカ文学を読んでいる感じだ。

日中戦争は絶滅戦を戦っている意識があるのに、日本では浮かれている(提灯行列とか楽観論で)。石川達三は、その落差に憤りを感じていたのだ。火野葦平が一人称で軍部に寄り添った描写とは違い、後半になると筆の勢いから、ますますドストエフスキーのようにニヒリズム的な内面を描く。最初はトルストイの『戦争と平和』ぐらいの客観小説だと思ったら、登場人物の人間性が壊れてきて、ついに戦争に生き方を見出すまでになっていく。一人の兵士として。その戦争のための兵隊になる成長物語です。だから石川達三の中では反戦的小説でもなく、当たり前の戦争小説だったのだ。

軍部が模範としたのは火野葦平『麦と兵隊』だ。兵士の成長物語として、当然だった。まだ火野正平は自我が保っているのだ。それで兵士になっていく。石川達三は自我が崩壊する。それで兵士になっていく。戦争機械。

検閲も出版社がしたのだが、後半はほとんど塗りつぶし状態でそれは石川達三も受け入れていたのだと思う。書いたことのほうが重要で書かれた作品はすでに彼の手を離れていたのだから。しかしも、それは発禁になった。

秦淮に泊す  杜牧(とぼく)
煙は寒水を籠め 月は沙(すな)を籠む
夜 秦淮に泊して 酒家に近し
商女は知らず 亡国の恨みを
江を隔てて猶唱う 「後庭花」

晩唐の詩人杜牧が南京に流れる秦淮河付近に泊まり、三国時代に呉がここを都にして以来、六朝(呉・東晋・宋・斉・梁 ・陳 )の都だったがそんな栄華も昔のことで、酒楼が立ち並んで「玉樹後庭花」を歌う。その歌は陳の後主は酒に溺れて国を滅ぼした「亡国の恨み」の歌。

関連本

『麦と兵隊』火野葦平

『戦争と検閲』河原理子



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