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秋の風無臭の臭い暗渠かな

講評会に行ったときの記念写真。川が好きですね。海に繋がるからか?でも、横浜の川はあまり景色が良くないですけど。

「シン・短歌レッスン」の「百人一首」で足踏み。自分なりの百人一首を選びたいと思っていましたが、すらすら出てこない。短歌を初めてからの日の浅さを感じます(でも一年以上やっているか?)。

川野 里子『七十年の孤独: 戦後短歌からの問い』を読み始め。NHK短歌の講師で一番わかりやすいと思って手に取りました。今の短歌界が無風状態(俳句界でも言われていることで社会全体がそうなのかもしれない。外の世界は激動なのに)であること。批評がないことなどが問題として上げられていて、いい本だと思いましたがもう絶版されている。十年も経っていないいないのに。

そこに現代短歌になったのは、釈迢空と斎藤茂吉が亡くなって戦後に葛原妙子や塚本邦雄が出てきたということだと述べている。釈迢空は近代短歌の「批評」で斎藤茂吉は「文脈」ということを言っている。葛原妙子が「文脈」で塚本邦雄が「批評」ということなのかな。葛原妙子はそれまで抑えられてきた女性性の発露として、女性短歌が全盛になっていく。その理論的中心が塚本邦雄なのかな。塚本邦雄の葛原妙子論には批判してましたけど。

川野里子の葛原妙子は短歌本の中でも良書だと思います。

俳句の分かれ目(現代俳句になるのかな?)も秋櫻子がホトトギスを脱退したときだと先日の講評会で言ってたと思ったが要は批評性があったということだと思う。それまでの写生という文脈から写生だけではない心の内も詠んでいいのだと秋櫻子が言い始めて「新興俳句」が出てくる。そういうことかな。ただ全体の流れは権威に従うようになっているから孤独になっていくのだと思う。

そういう「問い」を歌人や俳人は持っているのかということだと思うが。ある程度スタイルとして、この社会に迎合して生きていかねばならないというのがあると思う。その壁を乗り越えて違う道を示すのが改革者であると思うのだが。「文脈」(伝統)と「批評」(改革)を考えることは今必要なのだと思う。

ネット句会も新しさがなかなか見えてこないな。俳人に宛てた句ばかりのような気がする。自分もそうなんだけど。批評性の欠如。

今日の一句。

秋の風無臭の臭い暗渠かな 宿仮

まだ「単語で短歌」のお題が出てなかった。昨日の短歌には二ついいねが付いた。まあ無視されるより読まれているという手応はある。

昨日は『双曲源氏物語』は読めなかったな。今日は横浜の図書館は閉館で町田はやっているから町田に行くか?昨日は老人の日だったんだな。中途半端だから何の連絡もないのだけれど。身体だけは弱っていく。

暗渠立つ
無臭の中の臭い嗅げ
隠蔽された臭い世界を やどかり


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