見出し画像

寺山修司短歌十首

『寺山修司全歌集 』(講談社学術文庫)

短歌、俳句、詩、エッセイ、評論、演劇……。芸術のジャンルを軽々と飛び越え、その鬼才ぶりを発揮した寺山修司。言葉の錬金術師は歌う。故郷を、愛を、青春を、父を、そして祖国を! 短歌の黄金律を、泥臭く、汗臭く、血腥い呪文へと変貌させる圧倒的な言語魔術に酔いしれる。(講談社学術文庫)


横溢する言葉の魔力

短歌、俳句、詩、エッセイ、評論、演劇……。芸術のジャンルを軽々と飛び越え、その鬼才ぶりを発揮した寺山修司。言葉の錬金術師は歌う。故郷を、愛を、青春を、父を、そして祖国を! 短歌の黄金律を、泥臭く、汗臭く、血腥い呪文へと変貌させる圧倒的な言語魔術に酔いしれる。
(解説「アルカディアの魔王」塚本邦雄 解説「透明な魔術」穂村弘)

寺山修司の場合はどうか。……一見したところ、等身大の<私>が我々の知っている日本に生きているように思えるのだ。だが、寺山ワールドの<私>は神が自らに似せて作った傀儡に過ぎない。作者=本当の私は、五七五七七という定型空間の外部にいて、神のように全てをコントロールしている。――<「解説2 透明な魔術」穂村弘より>

Amazon紹介文

寺山修司を卒業しようと思う。中退かもしれない。寺山修司の短歌のわかりやすさや方向性は間違いないとは思うのだがオリジナルティを見た場合、やはりこの人はプロデューサー的な人なのだと思うのだ。

一つはパクリ疑惑が存在したこと。それは俳句の玄人好みの句を短歌で一般大衆に広めたということはあるのかもしれない。寺山修司的な歌の考え方、それは呪術であり個人を超えたものである。それは理解していたつもりではるがオリジナルティの部分に拘ってしまう。

一つは寺山修司の短歌がカット&ペースト的な戦略的な言葉を他者に届けるということは意味があったかもしれない。しかし、何かが欠けている。そのあたりはよくわからないのだが、表層的なものかもしれない。

例えば釈迢空の歌は、文語で意味は正確に汲み取れないが韻文としての心地良さがある。それはなんだろうと思うとやはり歌の伝統ということなのか?

寺山修司は短歌でなければならないということはなかったのかもしれない。それがマルチメディア作家として自己プロデュースしていく方法だったのかもしれない。その部分で尊敬しないことはないのだが自分の求めるものと何か違うと感じてしまったのだ。

なんだろう。寺山修司の神を求めても虚しいだけに思えたということか。この辺は説明するのが難しいのだが、折口信夫の言葉に触れたからかもしれない。

寺山修司短歌十首

夏蝶の屍(かばね)ひそかにかくし来し本屋地獄の中の一冊

寺山修司全歌集

寺山修司の短歌に出てくるのは夏蝶が多い。春の蝶はまだ朧気なふわふわした感じだけど、夏蝶になると捕まえるのも難しく空高く飛ぶイメージだ。ただその夏蝶の屍なのだ。それは彼のことなのか?本屋地獄の中の一冊だから、本の中の蝶のような気もする。

「かく」は「書く」のようだ。「描く」でもいいんだろうけど。「かくし来し」は彼が屍の蝶を隠したのか?かくが「書く」でもあり「隠し」でもあるのだろう。本屋地獄とは旧世代の本をイメージする。つまり寺山修司の「夏蝶」の屍で拵えた時限爆弾のような気がする。

理科室に蝶をとじこめてきて眠る空を世界の恋人として

寺山修司全歌集

こっちの蝶はかなりメルヘンチックだ。初期の頃の作品で先にあげた「屍」ほどのインパクトはない。でも蝶を閉じ込めてというと『コレクター』を連想する。「世界の恋人として」はまさに銀幕の女優としてだろうか?そんなことを夢想する少年時代。

海を知らぬ少女の前に麦藁帽子のわれは両手をひろげていたり

寺山修司全歌集

この短歌を好きになったのは穂村弘の本でだが、そういう感じのまだ天然の寺山修司という感じがする。そこに作為などなく、両手という身体をいっぱいに広げてみせる少年の純真さ。でもそれも作為的だったのかもしれない。海を知らぬ少女を騙すように読者を騙す。ただそこで読者は無垢になるのだと思う。騙されることの無垢な少女。

売りにゆく柱時計がふいに鳴る横抱きして枯野ゆくとき

寺山修司全歌集

この短歌は映画『さらば方舟』のイメージかな。寺山修司は、最初映画から入ったのでその時の短歌のイメージが強い。「枯野」は放浪の詩人のイメージであり、横抱きにしている柱時計は時間泥棒だろう。その泥棒がふいに鳴る時計の音に驚いてしまう。時間との駆け引きの短歌だ。短歌は一瞬を止めるものだという。

黒土を蹴って駈けりしラクビー部のひとりのためにシャツを編む母

寺山修司全歌集

スポーツ短歌をさがしていたときに見つけたものだが、実際の寺山は病弱だったようである。その憧れがラクビー選手であったのかと。そのシャツを編む母も虚構だ。虚構の中にある青春の幸福感。

とびやすき葡萄の汁で汚すなかれ虐げられし少年の詩を

寺山修司全歌集

前歌と比べると暗い短歌だ。本質はこっちだったのかな?「とびやすき葡萄の汁」とは恋愛関係なのかな。ニキビの吹き出ものような感じかもしれない。ラクビー青年の虚構性とは表裏をなしている短歌ではあるな。こっちのほうが実情にちかいのかもしれないと思うのは、そんな青春時代を送ったからだろうか?

兎追うこともなかり古里の銭湯地獄の壁の絵の山

寺山修司全歌集

これなんか好きな短歌だ。銭湯の富士山の絵というのはくつろぎの極地なのだが、それが地獄絵図になっているという。富士山大爆発で溶岩が流れ出るような。「兎追う」という故郷を粉砕する短歌だけど、銭湯がいい。熱湯にやせ我慢している風でもある。寺山修司の故郷は、青森だから青森の山なんだろうけど。

赤き肉吊るせし冬のガラス戸に葬列の一人としてわれうつる

寺山修司全歌集

吊るされている屍肉というとサウンドバック代わりに屍肉で練習するロッキーのシーンを思いだす。そんなような短歌なのかと。そういえば寺山修司が『明日のジョー』の力石徹の葬儀委員長だったのだ。これは力石徹の葬式だろう。虚構と現実が重ね合わす寺山ワールドか。

マッチ擦る束の間の海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや

問題の短歌ですけど、俳句をコラージュしてあるという。ただ言葉はもともと誰かのパクリで覚えるものだから、それもありだと思う。それによって世間に歌が広まったのだから。ブルースが作者不詳でも様々な音楽を利用し、黒人奴隷たちが自分の声で歌う。それでいいじゃないか?ブルースを感じる短歌の一つ。



この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?