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「紅旗征戎吾事に非ず」のムイシュキン公爵

『若き日の詩人たちの肖像 上下』堀田善衛 (集英社文庫)

雪の夜、北陸の没落した旧家から上京した少年の耳に、銃声が響きわたる…。2・26事件が起きた昭和初頭、暗い夜の時代に目覚めた青春の詩情と魂の遍歴を描いた感動の自伝長編。(解説・篠田一士)

堀田善衛が漱石『坊っちゃん』のようにあだ名を使った自身の青春小説。実在の人物、芥川比呂志や鮎川信夫、田村隆一、中村真一郎らが出てくる。なかでも堀辰雄をモデルとする先生に感化される感じは漱石『三四郎』に近い。

ドストエフスキーのアリョーシャをモデルとした人物が出てきたりと興味深い。2.26事件から戦争へと突入していく社会の中で様々なことを体験していく成長物語。小林秀雄のドストエフスキー観と主人公を対峙させるモデル小説となっている。『罪と罰』から小林秀雄は『悪霊』のスタヴローギン、堀田善衛は『白痴』のムイシュキン公爵を見出す文学観の違い。『堀田善衞とドストエフスキー』高橋誠一郎では指摘されていた。

廻船問屋のもとに生まれた少年は、没落貴族のようないまだに贅沢感が残っている余計者(贋作の骨董を売りながら大金を得たり)として東京に出る。そこで外国文学に触れながら意識改革をしていく者たち。しかし、時代は次第に自由にものを書く社会ではなくなって、やたらと精神主義が声高に言われる時代となっていた。

そのなかで思想家や哲学者の変貌は、生き残る為とは言え我慢ならないものを感じる。平田篤胤はキリスト教の一神教を天皇制に持ち込んだとする。しかしその中に憐れみの愛の概念が欠けている。キリスト教国の文学に触れながら愛の概念を追求していく。

ただ堀田善衛の思想は矛盾した部分や、男性優越主義的な面も否めない。三木清に対する批判などは、当時の思想界がどれだけ酷かったか、この主人公は警察にいた叔父に助けられている。同じ言葉の繰り返しや書き急ぎの部分があったりするのだが、あの時代にあって青春小説を物語るというのは特異なことではあったのかもしれない。時代性(言論弾圧の時代)もあるのだが、全体的には一人の個人に感情移入するよりは人々の変化を見る群像劇だと思う。語り手も少年から青年、そして最後は男と呼ばれる。

漱石のマドンナとは違い、こっちは悲惨なマドンナが監獄で拷問を受けた金子文子のような人物。彼女は反体制の夫に付き添いながら、自身も反権力的な酒場のマダムとして、年上の女性として語り手の前に現れるのだ。

彼女との通過儀礼的な愛(むしろその不完全さ)によって、さらに成長していくのだが、彼女の悲劇は男以上のものがある。それはドストエフスキー『白痴』に現れたナスターシャ的人物だろうか?

彼女は一度目の拷問で憲兵から拷問を受けすでに女性性を失った身体となっていた。さらに二度目の逮捕では半狂乱になって釈放される。そのときの彼女のセリフが印象的だ。

マルクスは自殺論にも触れて、自殺できる者はまだそれだけの力が残っている者だと言う。すでにその力さえない者が世界に多数存在する。彼女もその一人となってしまったのか?

しかし彼女の精神はドイツによるレニングラード陥落の時は今にも死にそうな風体だったのに、赤軍が反撃しると急に精彩を放つ。家の押入れにあるロシアの地図にまち針で抗戦図を貼っていた。憲兵に見つかれば即逮捕の死刑だろう。それでも彼女は共産軍の勝利を確信して、その後の日本の姿を夢見ている。

下巻のエピローグは『伊勢物語』から始まる。それには明確な意図があり『伊勢物語』の「昔男」が余計者で官吏職から外れ、その中で女たちとの浮名を流す文化人として描かれている。その時代は平安末期による激動の時代の先駆的な人物として、そんな中で自らの欲望の愛の歌を時代とは関わりなく歌う姿勢にあるのだ。

それは若者が生きた言論弾圧の治安維持法の中で詩を歌うことの難しさとリンクしている。そこでは詩=死とつながっている。それよりも生を歌いたい気持ちの現われでもある。それは、若者が追従する、もう一人の歌人藤原定家が乱世(承久の乱)でありながらわが文学(歌)を突き通した「紅旗征戎吾事に非ず」という姿勢と共感することなのだ。

この時代の文学者(詩人)たちの豹変ぶり(変わらない者は死に近づく)とどこまでも変わらない人物として描かれるのは女性たちだった。モデル小説でありながら「荒地」グループ(商業学校卒業者)と慶応仏文グループの交流の若き詩人たちは、男だけだが彼らが時代と共に通り過ぎる、ただ詩だけは残して。それに比して女性たちは戦争や逃亡した男たちを待つ人として、そこに男たち以上の悲劇を語る。

中でも豪快な人物像として語り手の叔母であるが母とは親子ほども年が離れて、前世代の生き残りと描かれる婆さんと呼ばれる人物。彼女は松尾芭蕉が『おくのほそ道』で世話になった海鮮問屋の娘であり、明治時代は自由民権運動家として少女時代を過ごした。明治の頑固婆さんというそれなりに明確な思想性があるわけではないのだが社会によって培われてきた生活の知恵というものがある。それを理想的に描いている。天皇制に悪態を付く庶民感情として、知性主義者が次々変貌していく中にあって、婆さんだけは変わらない。

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