『ひろしま』を超える「ヒロシマ」映画はない
『ひろしま』(独立プロ/1953)監督:関川秀雄 出演:岡田英次、月丘夢路、加藤嘉、山田五十鈴
二年前に書いた映画評のリライトです。
最初に見たのが2015年だった。アラン・レネ『二十四時間の情事』で『ひろしま』の映像が使われていると知って興味を持ったのだ。その前にWOWOWでこの映画の制作過程のドキュメンタリー「いま甦る幻の映画『ひろしま』」を見た(とツイートしていた)。最初はTVで見たようだ。
五社協定で松竹で公開予定だったが、カットせよと言われたシーンが3つ。最初のエノラ・ゲイの爆撃シーン。書籍の欧米人の日本人差別を論じたシーン。そして、浮浪児たちが生活のために墓を暴いて髑髏を売るというシーン。最後のシーンは広島の現実問題として、過去というより現在(公開当時)の問題として。そうして戦後生計を立てていた少年たちがいたということだ。
『ひろしま』が制作された当時も「ヒロシマ」の記憶は風化していた。だから最初の高校でのディスカッションシーンj被爆者が問題とされる。被爆者とそうでない者の違いを問い、現実に今ある原爆後遺症を問うものだった。
それとラストに流れる音楽は『ゴジラ』にも使われた曲で作曲者の伊福部昭が転用したものだ。伊福部昭は新たに『ゴジラ』のために曲を作ることは出来ないとして『ひろしま』の曲を流用したのだった。『ひろしま』は『ゴジラ』の母であり、髑髏を商売にする浮浪児はやがて『仁義なき戦い』の世界に彷徨うのである。さらにこの映画はフランスのヌーヴェル・ヴァーグに影響を与えているのだ。そしてそれを作ったのが広島市民(日教組中心でいろいろ言われるのだが)。ラストに参加する平和行進のデモのエキストラの数は8万と言われている。桁外れの映画である。
今持って古びないのは、戦争の悲惨さがどこかでも起きている限りヒロシマの悲劇は今ある問題だから、目をつぶっていてはいけないのである。「映像の世紀」でさえ被爆シーンは残酷なシーンがあると注意書きが必要な今だから見る必要がある。ドイツ人はアウシュヴィッツを見ないようにしていたからドイツ市民が悲劇を知らなかったと言われた。そして、戦後ユダヤ人収容所を連合軍によって見せつけられたのだ。今でもアウシュヴィッツ映画が作り続けられている現状(今年だけでもすでに二本観た。もう一本公開予定。)日本はどうだろうか?
『ひろしま』以上の映画が作られない現実がある。もっとこの映画に挑戦すべきだと思うのだ。アウシュヴィッツ映画のように。今の若者が興味を持つように、賛否両論はあるだろうが、そのことで社会に知らせることは出来るのだ。『この世界の片隅に』の原作を描いたこうの史代にヒロシマを描いた作品を映画化するとかできないものだろうか(『夕凪の街 桜の国』は映画化されていた)?
とりあえずそういう映画はなさそうなのでデジタルリマスターされた『ひろしま』を観ることを勧める。
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