マイノリティとしての可能性の詩
『英米の詩・日本の詩』水崎野里子 (「新」詩論・エッセー文庫)
英米の詩と日本の詩(現代詩)について、詩と批評が載っている本であり、サブタイトルの「詩論」というのはそういうことなんだと思う。
著者は詩人でもあり詩を書く状況がどうなっているのかをマイノリティの立場から伝える。それは詩が言葉の中心であるのだけではなく辺境の詩人として、例えばT.S.エリオットの古典主義は英語中心象徴性を目指すがイェーツなどのアイルランド詩人たちはアイルランド固有の表現やあるいは外部との影響から(イェーツ『鷹の井戸』は日本の能にインスパイアーされた作品)、マイノリティが世界文学として存在していくような試論だと思って良い。
そこに父権制での女性のマイノリティ性をあぶり出す女性詩が多くあるのだ。衝撃的なのはユダヤ女性詩人として書かれたアドリアンヌ・リッチ「レイプ」という作品は、自由民権運動の中での黒人女性という立場をよく表していると思う。それは人種差別の撤廃は叫ばれたが女性差別撤廃の運動ではなかったのだということ。自由民権運動の後でも相変わらず女性はレイプされ続け、それは罪にならないという人権問題。それはフェミニズムの問題にも大きな影響を与えているのである。
著者が翻訳するのは英米の詩でもマイノリティという出自を背負ったアジア系のアメリカ人やイギリスならイェーツのような辺境のアイルランド詩人である。そうした詩人たちから観た日本の原爆や沖縄問題を通じて連帯していく姿というものを浮き彫りにしていると思う。
キーワードとして「マイノリティ」と「フリンジ」という言葉はアイルランドのノーベル賞詩人シェイマス・ヒーニーから受け継いだキーワードとして、「フリンジ」はマイノリティが示す固有の文化を言うようだ。例えばファッションとしてのフリンジはジェンダーを超えた多様性の生き方として取り上げられる。
日本の詩でシベリア抑留体験者として、鳴海英吉と石原吉郎の詩を比較考察したエッセイが面白い。石原吉郎はそこでも不条理な人間関係から言葉を失い、その喪失体験を詩によって埋めていった。それはフランスの象徴派の純粋詩の観念のように(例えば究極的な詩としてのマラルメを連想させる)祈りとしての詩はどこかキリスト教的なのだが、同じシベリア抑留体験者でも鳴海永吉は仏教的祈りは大衆というものの強さを信じる詩のようになっていく。そこが浪曲の世界であったり世俗的ものなのだが、そこに言葉の純粋性よりも俗語的な例えば黒人のスラングやピジン英語というような人間のしてのたくましさを見るのだった。それは日本ではフランスの純粋詩のような象徴性が好まれるが、いまアメリカのマイノリティが作り出す英語の詩は彼らの生きている現実を伝えるという。
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