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日記 血を浴びながら書いているひと。

 8月5日(月)

 6時10分起床。早番勤務。快晴。朝からマイラバの『Hello,Again〜昔からある場所〜』を5回ぐらいリピートして聴いて、イントロの部分からガツン!ときて、これは本当にいい曲だよなあ、と思いながら出勤。

 昨日は休日で、一日中、車谷長吉『癲狂院日乗』を読んでいた。合間合間にヤクルト戦を観たり、パリオリンピックのゴルフを観たり、麻雀最強戦を観たり(ものすごく面白かった。賢ちゃん!)しながらも、ずっと手には長吉を持っている、そんな感じだった。そして今日もぐいぐいと読んでいる。直木賞を受賞したのにぜんぜん幸せそうに見えない長吉。むしろ津波のように押し寄せるお祝い、仕事の依頼、周囲の人々からの圧力に、どんどん生気を奪われていく長吉。新潮社と文藝春秋の間に挟まれて苦しむ長吉(この辺りの生々しさ、凄い。赤裸々。さすがに個人名は伏せられているけれど、読む人が読めばすぐに誰のことか分かるだろう)。書くことを求められ、書いたら書いたで大切なひとを失っていく長吉。アロエを恐れる長吉‥‥‥。生きづらいだろうなあ、生きづらかっただろうなあ、と思う。順子ちゃん(奥様)がいてくれてよかったね、とも思う。このひとの文章に、どうしてわたしはこんなにも惹かれてしまうのだろう。

 平成八年二月二十六日の夕、『赤目四十八瀧心中未遂』の原稿を書き上げた。六年の歳月をついやして書いた原稿だった。併し静かな達成感は少しもなかった。烈しい虚脱感を覚えた。次ぎに、スリッパ、下駄、靴が虚空を飛んでいるように見えた。恐ろしくなった。壁に死者の顔が写っていた。その顔が笑っていた。

 毎日朝夕、抗鬱剤、精神安定剤、下剤、胃潰瘍の薬を呑む。外から帰れば、きれいに洗った雑巾でズボン、シャツを拭く。直接接触を極端に恐れている。家の外へ出るのが恐い。こういう強迫神経症の状態にある自分に、強い違和感を覚える。恰も自分が他人であるかのようだ。だが、この違和感を覚えている自分とは何なのか。私の中には強迫神経症に罹っていない部分があるのか。あるとすれば、その部分は「正常な人間」なのか。私の人格が分裂しているのだろうか。

 終日、眠。夜、文藝春秋出版局に寄せられたら『赤目四十八瀧心中未遂』の愛読者カードを見ていたら、女優の寺島しのぶ(富司純子の娘)からのはがきがあり、『赤目四十八瀧心中未遂』がもし映画化されるならば、ヒロインの「アヤちゃん」役を勤めたいと記してあった。驚く。

私小説を書くことは、自分の弱さを認め、弱さを剔抉するということだ。これは苦痛だ。併しこの実践なくして救済はない。

小説を書きたいというのは、人殺しをしたい衝動を覚える時だ。ところが、書くことに罪悪感を覚える。疚しさを感じる。書けば、必ず誰かを傷つけてしまう。書くことは因業だ。自業自得の返り血を浴びる。因業にいかに堪えるか。

車谷長吉『癲狂院日乗』


 保坂和志の小説のことを「毒にも薬にもならない」と綴っていて、まあ車谷長吉からしてみればそうだろうな、と思う。彼らの作風はあまりにも対極すぎる。保坂和志は日の当たる縁側でのんびり猫と戯れているイメージ。一方の長吉は、ちゃぶ台ひとつしかない陰気くさい四畳半で、ひとり取り憑かれたかのように原稿用紙に向き合っているイメージ。着ている服は返り血で汚れている‥‥‥。私は両方とも好んで読んでいるが、保坂和志の文章を読みたい!と猛烈に感じる自分と、車谷長吉の文章を読みたい!と猛烈に感じる自分とがいて(もちろんこの固有名詞は他の作家の名前に変わることも多々あり)、同じ自分なのになんだか別の人格みたいだな、と思う。「自分」って一体なんなんだろうな、とふと考えてしまった。私は私が分からなくなる。長吉も自分自身に違和感を抱いていたようで、だからあんな最期を選んでしまったのか。この日記をいつまでも読んでいたい。つらいこと、苦しいこと、病気のこと(「これが私の病だ」と長吉は何度も何度も綴っている)、愚痴や悪口ばかりだけれど、それでも彼の日記を読んでいたいと思うのだ。不思議。


 夕飯。鳥もも肉とズッキーニの炊き込みご飯、きのこサラダ、豆腐とわかめの味噌汁。パリオリンピックの男子バレーを観ながら食べる。2セット先取でいけるやーん!からジリジリと追い詰められ、一進一退の攻防を演じ、そしてあと1点からの、大逆転負け‥‥‥。呆然。あまりにも悔しすぎる敗戦。ああ、残念。

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