強くなったら。
喧嘩の思い出
小学校の時の喧嘩で相手を骨折させた事がある。
しかし、その時は相手の親から謝罪と菓子折りをもらった。
何が起こったのかと言うと、相手が私の頭を拳で殴った結果、骨が折れたのだ。
強すぎる力は自分を傷つけるものなのかも知れないと、それを象徴するような話が自分の身に起こった。
この出来事以前から喧嘩は強かった試しがないが、まもなく中学生になろうとしていた私は強くなって、広く言えば「力を持ったらどうしたいのか」と言う事をよく考えていた。
私は相手の喧嘩が強すぎて頭とか腹とかを殴られていただけなのだが、これを機に仲良くなって頻繁に遊ぶようになったので、結果的には弱かったのでよかった、みたいな話になってしまった。「別に弱くったって良いじゃん」みたいな感じ。これは祖父が亡くなった時に大きく揺らぐのだけど、それは以前のnoteなどで書いているので興味のある方はそちらへどうぞ。
強くなりたいと誰しも思う
そもそも強くなりたいだとか、有名になりたいだとか。誰しもが大なり小なり持っている気持ちなわけで。一方で、その為に誰しもが激烈に努力できるかと言うとそうではない。
「あ〜あ、私が書いた文章が突然めちゃくちゃ称賛されて仕事やらなくても済むようにならねーかな」とポプ子のようにつぶやく事も、正直言ってある。
対戦もののゲームにおいては、最強は基本的に孤独であると思う。自分のブログでもこのことについて少し話をした事があるのだけども、リンク先の記事は2016年ではありますが、今は将棋界に藤井聡太8冠と言う圧倒的な人物がいる。こぞって藤井聡太8冠を倒そうとしているのに、他の人は理解できない。
手が理解できないが故に超えられない、あるいは紛れの多い手によって得意の地力勝負に持ち込まれると言う状態だ。圧倒的な強者の戦術だ。
自分の記事から引用するけれども、藤井聡太8冠は2023年時点で紛れもなくアイドルであり、将棋の象徴だ。彼がそれを望んでいるかどうかに関わらず。
強さに意味はあるか
さて、強くなる努力の先に「自分を幸せにできる未来」が存在しているのかは考慮の余地がある。
努力と言うのは気持ちいいものです。
特に、こんな私の文章を読んでくれる人は共感してくれる人が多そうな気がする。
しかし、いつも気持ちよさを邪魔する者が現れる。
私がよく失敗した視点をお話しするのは、「あぁこんなねじれた過去を持ってても最終的には人生楽しくできるんだな」と周りの人に思って欲しいからだし、人生をスムーズに……見えてる罠みたいなものをせめて自分の周りにいる人は踏んでほしくないからだ。
他人を蹴落として強くなってほしくはない
はたしてこの「強くなって何をしたいのか」が疎かになると、強くなったとて今度は弱くなる事を恐れるようになる。そう言う人をたくさん見て来た。
蹴落とした他人からの恨みは自分に跳ね返ってくる。
あるいは色々歪みはじめると「自分が弱かった時の、強かった人の幻想」の様に振る舞い、かつていじめられた自分に対して接する様に、他人に接してしまう。(そしてそう言う人が友人を失くす。)
オタクでも過去いた界隈を遠目から眺めてるつもりで悪く言う人、いると思う。元恋人の悪口が好きな人とか。
後ろから髪を引っ張る人を、積極的に手放すべきなのだ。さもないと弱かった過去の自分が襲いかかってくる。
強さをどう振るいたいか
自分の中では子供の頃から「自分と自分に関わる人、そして社会の人を幸せにする為に生きよう」と、被爆者でもある祖母からよく言われていたし、高校生〜大学の前半で揺らぐも何とか戻ってこられた。と思う。
ただ、これは人によって違うんだろう。
そもそも強くなることに興味の無い人もいる。
(※ここでは向上心無さすぎるだろ!的な意味)
最強の先の孤独に耐えられるのかも人によって違う。
ただ、なあ。
せっかく強くなるのだから、強さに見合った「自分の為」に加えて、溢れた分は掬って飲むのではなくて「人のため」に分け与える方が、人間幸せなんじゃないかと私は思うよ。