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人生で成し遂げられる事なんて無いと感じた雨の日に沈む

あの頃自分は天才だと確信していた

同級生が医者や起業、大企業の広報や研究者、アニメーターやイラストレーターや小説家、世間の様々な所で見聞きし活躍しているのを目にする中で、自分はいたって普通のサラリーマンをやっている。様に思う。それも、どちらかと言うとうだつの上がらない、落ちこぼれの方のリーマンである。

自分はFacebookも一応アカウントを持っておりアクティブなアカウントだが、そこを開くと皆本当に輝いていて、輝きすぎていて見ていると具合が悪くなるので長く滞在することは困難を極めている。

そんな自分だが、小学生の終盤は勉強の成績がとても良かった。
自分の校区の公立中学校があまりにも荒れ果てていたため、我が子の生命を危ぶんだ親に5年生の終わりに突然中学受験の塾に入れられた所、何故か小学6年生の夏休みに学力が爆発的に伸び、日本で1番偏差値の高い中学を受けることを勧められたりした。
ところが、当時の私は生意気にもそれを「家から遠いから」と言う理由で蹴り、(今思えば別に近くもないのだが)それなりに近くて、合宿等で伸び伸びと過ごせるだろう、偏差値で言うと2番手グループの中学校に進学したのだった。
当時父親からは「レベルの高い所にはついていけなくなるから、もっとレベルを下げた所に行って欲しい」と言われていたが、私の中では進学先のレベルを下げた形になっていたので、別に構わないだろうと思っていた。
親の中では「親の期待を裏切って勝手に進学した」事になっていたが、当時、同居していた祖父だけは自分のことを自慢だと伝えてくれた。
恐らくあの時、私は多くの人がなりたくてもなれないものになっていた。

「何か」になることを宿命付けられた人々

進学した中学校は、何かになることを宿命付けられた人が多かった様に思う。医者の子供、政治家の子供、○○の役員の子供、帰国子女、etc… etc…
こちらはいたって普通の転勤族リーマンの子供であり、学校帰りに一緒にどこかに寄って買い物をすることも難しい。
なにせ、家庭で父親の自爆営業の話題が飛んでいたぐらいだ。

何かあると「うちは普通のサラリーマンだから」というのが母親の口癖だった。やや遠い家だったため、家と学校を往復するだけで、誰かの家でゲームをするか、公園で野球をするか。
成績はトップクラスではないものの極端に下がったりはしなかった為、親の「勉強しろ」と言う言葉は自分への無理解と私の中で解釈された。誰かの家に遊びに行かせてもらうたびに、生活レベル、そして友達がいかに家族から大切にされているかの差を感じてしまっていた。
一方でしかし、今思い返しても、将来何になりたいかを考えている人の割合はとても高かったように思う。

ちなみに私で反省したのか弟の時はかなりお金を持たせて遊びに行かせており、私のコンプレックスを助長することになるのだがそれはまた別の話である。

アテナイの学堂

冒頭の絵はラファエロの「アテナイの学堂」の一部である。
中学2年生のときの美術の授業で「名画の中に自分を取り入れて描きなさい」と言う課題が出た時に、「自分」として描いたのが、このヘラクレイトスだ。
「人々が盛んに議論を交わす中でその喧騒から顔を背けるように沈思黙考する姿を自分らしいと感じた」と選び、周りを青と黒で塗り固めた暗い絵が、何故か美術の先生にも気に入られて学年で1番高得点を得た。(私が通っていた中学は絶対評価制だった)

「自分は選ばれたんだ、特別なんだ」「自分以外見えていない」というのがいかにも中学二年生と言う感じだが、残念ながら、本質的に私が当時からなにかが変わっているかと言うと否であろう。

私は何も出来なかった

中学3年生の冬休みがはじまった頃だろうか。
同居していた祖父が家の近くでバイクにはねられ、頭を打った。すぐに救急車が呼ばれたらしく、また、隣の家のお婆さんが家に居た私を呼んでくれた。

私は救急車に乗り、呼吸器を外そうとする祖父の手を握った。視界の隅で青ざめた背の低い青年が居た気がした。その時、彼が何を言ったかは覚えていない。

次に覚えているのは、病室の前だった様に思う。
バイクに乗っていた青年の叔父と名乗る、酒焼けした声の中年が、「払える金は無い」とか言っていたような気がする。

その後まもなく、出血で脳が圧迫されているとのことで、頭蓋骨を開ける手術をしたところ血が止まらず、祖父は亡くなった。12月30日の深夜だった。
「正月の前にちゃんと死んでくれたから良かった」誰かがつぶやいた。

3ヶ月もしないうちに親父の車はオデッセイからエスティマになった。ペットの犬は増え、家族で沖縄旅行に2回行った。担任の教師には学校を休んで旅行に行くことを咎められたが、自分ではどうすることも出来なかったと諦めた。
家族では祖父の死を喜んでいる者のほうが多いような気がした。後から聞いた話だが、父母は警察官の祖父から厳しく生活を咎められており、弟は勉強をしていない時に叱られていたそうだ。
祖父が呼んでいた為毎年のように集まっていた親戚たちと私の家族は疎遠になり、私は高校で虚ろな日を過ごした。(驚くべきことに、高校生の思い出が殆どないのだ)定期テストの成績も下がり、卒業する頃には下から2番目になっていた。

私には高校3年生の時、特になりたいものも無かったので、あたかも真面目に勉強している顔をして、後期試験で勉強しなくても入れる国立大学へ入学した。
当時のバイクの搭乗者からは毎年お歳暮が届いていたが、その頃には謝罪の気持ちにすらうんざりしていた。


無力感の果て

その後何度か死にかけたりするものの、踏みとどまり皆様に生かさせてもらっている。
ところが、今でもなにかきっかけがあると自分が自分でない様な気持ちになり、また本当は思いもしていない様な冷たい発言が自分から飛び出る時がある。多分私は問題だらけの心なんだろうが、苦しい時はもがくばかりだ。

数十年経ち、心はまだ、ありもしない、やり直しを叫んでいると自覚する。
私は祖父に生きていてほしかった。死んで良かったなんてありえない。
それなのに、周りの大人に向かって「お前ら全員、人として最低だ」と言えなかった自分を許せてなどいない。

「私が人生で成し遂げられるものなどない」と。

一方で、それを持ち続ける事が自分の子どもたちや私自身のためにはならないのではないだろうかと思う部分もある。
果たして、手放せる日が来るのだろうか。あるいは、死ぬまで持ち続けるのだろうか。

考えても答えが出ないことは頭では理解している。
けれど、自分が上手くいっている時にすぐに「出てきて」しまうのだ。

お前は一体、何者なんだ。


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