健康で文化的な死とはなんぞやーカレー沢薫のひとりでしにたいを読んで思ったこと。


ひとりでしにたいより

健康的で文化的な死なるもの

健康的な死とはなんぞや。
そもそも健康でなくなるから死ぬわけで。
愚行権を行使して夜更かし寝酒、タバコにワンナイトで刹那に生きて家族を作らない人たちもいる。わざわざ不健康を呼び込んでいる。
この話の主役も推し活に金を注ぎ込んだり、実家があるのにマンション買ったりと愚行権を行使している。運動をしてる様子はない。
健康的と文化的は折り合いが悪いだろう。

健康的な死の話に戻ると、体が悪くなりきらないうちに見切りをつけて安楽死することだろうか。このイラストもババアではないもんな。
胃瘻やらのテッテ的な延命治療をやった上の死が健康的な死とは言い難い。

次に文化的な死とはなんだろう。

三島由紀夫の死は大変文学的だった。命が何よりもとおとい(わざとだよ)という戦後への文学的問いかけだろう。
文化的な死というのはなかなかうかばないが、自然に老衰したり病に倒れ死ぬことと対比されるべきだろうか。

文化的な最低限度の生活と対比させるとクーラーとか車とか使う権利があるよって話になる。上にあるよう延命治療ガンガンやった上で死ぬ権利があるということだろうか。
野垂れ死(死んだまま放置されること)することは避けるべきだとなろうか。

文化的な死とはなかなかに難しい。何らかの表現の発露としての死というイメージになる。

やはり野垂れ死にしない権利と取るべきか。

家族も人間関係も作れないやつか野垂れ死にしても仕方ないか

自由と相性が悪すぎるだろう。入ってくるな関わるな、もしくは他人を不快にするコミュニケーションしかとれないという人間が死んだことを、その日その時に他者が察知することは不可能だろう。
普通に考えれば、公的機関による遠隔監視のようなものが必要になるだろう。

人間関係を構築できないのに収入が高く、私的機関の見守りサービスを利用できるだけの金銭があるとは考えづらい。また自発的にそういうものと契約することも考えづらい。自分の行動を筒抜けにしたい人間が人間関係構築を厭うだろうか。

健康的で文化的な死のために必要なものは

愚行権の取り上げ、政府による監視、安楽死がセットになるだろう。

健康的で文化的な死という概念を提示したのは面白い。が、現実に即すとキレイな世の中になりそうだ


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