井上ひさしの戯曲のおもしろさ-太鼓たたいて笛ふいて-
井上ひさしが亡くなってしばらくは、「吉里吉里人」とか「父と暮せば」とか読み漁り、また親戚の医師乙供先生から送っていただいた、ラジオ深夜便の録音テープを何度も聞いたり、さらには展覧会にも出かけたりした。そして最近、と言っても3年前には「四千万歩の男」など、楽しく読んでいて、一度は舞台も見てみたいと思っていたのが、実現した。
緊急事態宣言のさ中ではあったが、こまつ座第138回公演「化粧二題」を紀伊国屋サザンシアターで1か月前に見た。目に浮かぶ場面を思い返してみたくもあり、アマゾンで「井上ひさし全芝居その六」を取り寄せて読んだ。原作の指示がそういう形で鵜山仁の演出に現れていたのかとか、有森也実にしても内野聖陽にしても、一人で50分語ってしまうのは、さすが役者とはいえすごいと思うし、場面や言葉が頭に残るのも、その場で芝居を見たということなのだと振り返ったりしている。
「その六」には、戯曲が8編入っている。「化粧二題」のほかに「父と暮せば」「黙阿弥オペラ」「太鼓たたいて笛ふいて」と、半分を読んだところである。
林芙美子が、戦時中に従軍ライターとして、進軍する日本軍の記事を書いたことを「太鼓たたいて笛ふいて」に象徴的に表現しつつ、島崎藤村の姪の島崎こま子の戦災孤児救済に共鳴するあたり、また、母の林キクの、文字が読めなくても人の心を読める役回り。全体を通してのミュージカルの展開など、実にみごとな構成になっている。昭和10年秋から昭和26年夏までの日本の社会と人間に、スポットライトをあててズバッと描いている。
人間として生きるとはどういうことかを、おそらくは井上ひさし本人の人生とも対比しつつライターとしての林芙美子を浮かび上がらせている。「大江健三郎や司馬遼太郎といった大小説家にはとても対抗できない自分は戯曲で世に問おうと頑張ったのだ」というようなことを聞いた気がするのであるが、なるほどなとも思えた。戯曲には、小説を超える味わいがある。登場人物の言葉と動作を分けて書くことから、もちろんそれが断片の積み重ねとして表現されていることから伝わる味わいだ。
「父と暮せば」にしても「太鼓たたいて笛ふいて」にしても、巻末にかなりの量の参考文献が載っている。これから読もうとする吉野作造を描く「兄おとうと」も同じ。いずれも、社会背景を気持ちよく引っ張り出して、何か訴えている。人間の言葉や動作にじわーっとした感動が残るのである。
また、ときどきは、芝居を見に行って、同時に戯曲を読みたいという気にさせられる。