アジア人物史5はモンゴル帝国

13世紀は、モンゴルの時代。ユーラシアを武力でかき回したともいえるし、ユーラシアを一つの商圏、文化圏にした時代とも言えるようだ。
まず第1章は、チンギス・カン(1155?-1227)。生年が明らかでない(1155年亥年は『集史』による)ということは、子どものころは、多くの部族社会の一つの有力集団のリーダーの子テムジンで、さまざまな記録があって定まっていない。チンギス・カンの金言の一つ「軍隊の指揮官にふさわしい者は、自分の飢えと渇きから判断して、他人の状態を推察し、道中は計算して進み、軍隊を飢え渇いたままにせず、家畜をやせたままにしない者である。」(p.16) 13歳で父を失っているが、知力に長け武力は並外れていたという。戦いの中で、長男ジョチの病死に接し悲しみを味わっている。3男オゴデイ・カアン(1186-1241)が帝位を継承した。オゴテイの重病の場に4男のトルイが来て「私の罪は彼の罪より多いのです。私は戦いで多くの人を殺し、彼らの妻や子を略奪し、捕虜たちの父母を嘆かせました。・・・彼をこの病気から回復させ、彼の病気を私に与えてください」(p.61)と言って、そのとおりになったという。
第2章は、トルイの次男クビライ・カアン(1215-94)である。覇権を最大に拡大し、南宋も征服した。文天祥についても『宋史』の記述が紹介されている。クビライは終始文天祥の命を救おうとし、死刑執行に心が揺れていたという。(p.124)
日本に対しては、使者を使わせて「高麗が服属しているから、日本も通交するとよい」という趣旨であったといい、日本人二人、塔二郎。弥二郎を捕らえて、大都の宮殿も見学させ歓待したというが、日本の返事をしないという決定は変わらなかった。(p.132)
漢人の官僚を多く抱えたということは、儒教についての基本理念が学問の基礎になっていた。儒教の経書研究を専門とするものたちを儒林派、文章の達人たちを文苑派と分類していたという(p.148)が、これは現代でいえば工学と法律に相当するともいえるかもしれない。
ヴェネツィア生まれのマルコ・ポーロ(1254-1324)も、この時代の人間で、クビライの命を受けて雲南や江南、南海を経て南インドに使節として派遣されている。(p.159)
第3章はモンゴル時代の西アジアの題で、出自は謎のラシードゥッディーン(1249-1318)が語られる。イル・ハン国で行政官僚・歴史家として活躍し、史上初の世界史「集史」を編纂した人物である。
書いたものが残るという意味で、偉大な人物として後々に見えてくる訳であるが、中国史上最初の大劇作家として取り上げられているのは、第4章の関漢卿(1230頃―1324以降)である。元代に流行した演劇である「元曲」は、日本が中国から取り入れなかった唯一の文学ジャンルであるという。60種以上が創作されている。歴史劇、恋愛・世話物劇、裁判劇など18種が紹介されており、医学と文学という視点で考察されているのは興味深い。
第5章は、道教を扱う。金代の王重陽(1112-70)が全真教として始まり、元代に定着したという。「この人生で成道できようができまいが、天に任せて怯まず功行に邁進し、だめでも道心を抱いたまま死ね、それが来世の成道に生きると言う。」(p.316) 教え子4兄弟のひとり丘長春(1148-1227)はその後最大の英雄として知られ、北京の白雲観丘祖殿に遺骸が安置されているという。西遊でチンギス・カンを訪ね、その問答は耶律楚材(1190-1244)編の「玄風慶会録」に残されている。これを契機として全真教とモンゴルの緊密な関係が築かれたという。戦乱の世に、道教は相応しい哲学のように感じるのである。
日本の武家政権としては、第6章で北条泰時(1183-1242)が取り上げられている。1221年の承久の乱で後鳥羽院に立ち向かって勝利を収めたことが、武家政権を確立したといえるということだ。泰時はしばし亰に留まり、六波羅探題として治安回復、公家政権の監視役となった。浄土宗の祖師として法然(1133-1212)が登場し、さらに真宗の親鸞(1173-1262)、日蓮宗の日蓮(1239-89)、宋代の仏教を伝えた曹洞宗の道元(1200-53)、臨済宗の栄西(1141-1251)が、その後のわが国の仏教の大きな宗派を作った。
第7章では、夢窓疎石(1275-1351)のエピソードが取り上げられている。元代からの文化をもたらした禅僧とも言える。禅宗では宋元の制に拠って、規矩に従った集団生活の原則が、寝食に至るまで徹底的に実践された。(p.406)これは、同時代中世の西洋では、修道院の存在に近いものと言えるのではないだろうか。
第8章は高麗である。30年にわたる抵抗戦争の末、クビライの元に服した。25代君主の忠烈王(1236-1308)は、高麗の生存戦略を全うした役割を担った。
第9章は南アジアで、ニザームッディーン・アウリアー(1243-1325)のスーフィー(イスラムの神秘体験をした徳の高い聖者)としての生涯が概観される。今もデリーにニザームッディーン廟とその周辺は参詣の対象になっている。
第10章は東南アジアでガジャマダ(?-1364)ジャワのマジャパヒト王国の英雄としての活躍が記される。
第11章は大旅行家イブン・バットゥータ(1304-69)である。西はグラナダからアフリカはサハラ砂漠を越えてマリ王国へ、北はキプチャク・ハーン国、南は東アフリカを南進、さらにインドからスリランカ、スマトラ、さらに北上して元朝の大都へも足を延ばしていることになっている。マルコ・ポーロ(1254-1324)よりも、はるかに広域であり、モンゴルとイスラム世界を覆う交易システムを体現している。
第12章には、イスラム世界の思想家が取り上げられる。イブン・アラビー(1165-1240)はアンダルス(イベリア半島南部)で生まれ、ムワッヒド朝の文化的土壌で育ったという。1198年、父の友人イブン・ルシュドの葬儀で思想理解の不十分を感じ、バクダードやダマスクスにて思索を重ね、神秘思想を創唱する。「神曲」で有名なダンテ(1265-1321)も影響を受けているという。(p.662)モンゴル来襲後の思想家としてイブン・タイミーヤ(1263-1328)を挙げている。イスラム主義に興味のある人で知らない人はいないという。戦う思想家であり、モンゴルに対しても立ち上がったし、スーフィズムに対しても論争をしかけた。さらには、有能で野心的政治家としてイブン・ハルドゥーン(1332-1406)が「歴史序説」で有名とされる。アルハンブラ宮殿を建設したことで有名なナスル朝宮廷に出仕し、グラナダで若い国王に帝王学を授ける栄誉に浴したという。(p.683)
ユーラシアにおけるモンゴルの時代は実にダイナミックである。ヨーロッパはまだ暗黒の中世で、ルネッサンス前夜である。儒教やイスラム思想が花開いていた。日本では、そのつながりはせいぜい仏教くらいで、日宋貿易は限られており、隔絶された世界であったといえるようだ。

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