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「蘇峰自伝」に主観的自分評価を読む

馬込図書館で何か1冊と思って手にしたのが、日本図書センター刊の「徳富蘇峰」(1997年)蘇峰が73歳のときに記したもの(中央公論社1935年)の復刻版である。
この2月に和田守著の「徳富蘇峰」を読んだので、生涯における業績、思想については一通り頭の中に残っており、そのことを70歳の本人がどう考えているのかということが、すなわち、客観的に見た蘇峰と主観的な立場の蘇峰の違いが感じられて面白かった。本人としては、平民主義は変わっていないし、地方における教育の大切さについても尽力している。終生、新島襄を師と仰ぎ、平和主義も否定しない。それが、日清戦争あたりから、軍国主義日本を正しい道と言うようになるのは、政治の裏舞台で大物政治家と議論を重ね、政治家にはならないと言いつつも政治の目で日本を見て、大きな流れを肯定的に捉えるようになってしまったのである。終始、ジャーナリストとしての社会的使命を果たして来たという強い自負が語られるが、それが平民主義、平和主義と矛盾することに思いが至らなかった。
「国民新聞」を通して言論人としてやりたいことをやって来た人間が60歳で、父を見送り、関東地震の被害から会社を失い、さらには、頼りにしていた次男万熊を失うという、厳しい時をどのような思いで過ごしたか、さらには、その後、3年後には、弟蘆花を見送り、長男も失う。60代は悲しさの重なる厄難時代であったが、そこから山王草堂での「近世日本国民史」の執筆へのエネルギーを蓄え、94歳まで頑張り、父親の年を1歳越えた長寿である。
以下、20か所ほどの気になるスポットをメモしておく。
「幼時における予」を語るところでは、母の膝の上で「月落烏啼霜満天」を始め多くの唐詩を習ったという。(p.33)
従兄の徳永規矩と塾帰りに、二三が六なのに、二三が五だと言って喧嘩した逸話は、数学に興味がないという説明に使っている。(p.45)
入学したものの騒動を起こして退学した同志社時代は、新島襄を慕う。「人間の生活は畢竟、高尚なる奉仕のためにするものであり、人間の価値は奉仕する心の純潔と熱誠とによって定まるものであるという事を教えたのは、新島先生である。」(p.90)
熊本に戻り、大江義塾を創立したころは、武力主義には反対と明言していた。「当時の民権自由論は、名目が民権であってその実は国権であった。即ち明治6年征韓論の余波は、なお当時の人心を支配し、民権論者の中でも半ば以上は、朝鮮討つべしなどという論が多かった」と批判している。(p.120)
東京に出て、交遊範囲は広がる。自由党の「自由新聞」の社説を書いていた田口卯吉の文章に感服していた。「君は大隈伯が保護貿易者であり、自らが自由貿易者であるため、大隈伯の政策にしばしば反対していた。」「是非会見してみたいと希望していたが、板垣伯などは、予が高く買う程には、田口君をかっていなかった」(p.136,137)
両親が結婚相手を見つけてくれたときの感想である。「予を変人、奇物と見るはまだしも、『困ったものである』と思う者も少なくなかった。さようなる者に自家の最愛の女をやろうという者も多くはあるまじく、またさような者に自ら嫁がんとする者もあるまじく」(p.150)となかなかの自己分析である。
新島先生の逝去の際は、新橋から汽車で大磯に駆けつけ、先生の種々の遺言を筆記した。京都から来られた新島夫人には「私は同志社以来貴女に対してはまことに済まなかった。しかし新島先生が既に逝かれたからには、今後貴女を先生の形見として取扱いますから、貴女もその心持を以って私に交わって下さい。」(p.192)なんとも不遜な物言いだ。
『国民新聞』は新聞紙面の及ぶ範囲を広くした。即ち従来ほとんど閑却せられたる人間の生活、及び思想のあらゆる方面に向って、新領土を開拓したのであった。」(p.194)確かに、憲法もようやく出来たものの、藩閥政治も幅を利かせている明治の日本でジャーナリストとしての面目躍如である。
伊藤内閣の外交批判は随所に語られる。桂太郎については、「市民将軍としてわけの分かった軍人」(p.224)と書くあたりから、日清戦争後の遼東半島還付が気に入らないことで共感し、さらに朝鮮併合や満洲進出を正しい国のあり方というようになったのである。このあたり、今のプーチンの侵略をロシアの正義とする政治と変わらない。
世界漫遊については、盛大な見送りの後、また世界に多くの知己を得る機会となっている。ロシアではトルストイにも会っている。「ブタペストからウィーンに入り、それからチロルを越えてヴェニスに下り、フローレンスを経てローマ、ネーブルス辺を歩き廻ったが、ローマでは『タイムス』の特派通信員スティールマン翁と交わり、翁によってあらゆる便宜を得た」(p.233)ロンドンでは腎臓炎でしばし病に伏すも、ニューヨークでは演説の機会ももらったりして、すばらしい世界一周である。
勝海舟については、父子ともども心を諒解してもらったという。「とにかく海舟翁は、日本が幕末より明治にかけて産出したる一個の偉人でなければ、偉人中の一個であるに相違はあるまい。先生は実に人間学の大博士で・・」(p.246)
伊藤公に対しては、秘書が欲しいという話が出た際に、古谷久綱を紹介した話が語られる。これなども、ある種の自慢話であり、いかに政界に深く首をつっこんでいるか、日本のことを考えているか(本人としては)ということでもある。
桂内閣については、すぐ瓦解するかと思いきや、日英同盟も無事締結し、露国と対抗する国であることを世界にアピールできたというのだ。それまでの大隈内閣、松方内閣、井上内閣、いずれよりも桂内閣に肩入れしている。
同郷の井上梧陰先生とは、それほど近く交わったわけではなかったが、弟子の清水小一郎君から「徳富は御身達が、いかなる竉栄高録をもて買収せんとするも。到底これに応ずべきものではない。かれには当人の了見があり、真骨頂がある」と薩長藩閥の巨頭に向かって語ったと聞く。(p.322)これもジャーナリストとしては、自慢であろう。
「近世日本国民史」執筆に取り組んだ矢先の大正3年に93歳の父を喪う。「当分生ける屍も同様にて、何もなす勇気も無ければ、元気も無く、ただ機械的にその日を送っていた。」(p.327)長寿をまっとうしたと思うよりは、みずからが心細く淋しかったという。自分に引き替えてみると、67歳の父を喪ったときのことを、思い返し共感するものを読み取った。そして父よりもすでに8年も多く人生を送っていること、そこでの人や本との出会いを想った。
大正8年には、盲腸炎の手術を受けている。ご苦労様だ。その時期に、91歳の母を失っている。その後4年は逗子に暮し、関東震災を迎える。
庭の離れのソファで雑誌を読んでいたときに、地震が来た。「そこでとてもこの家は潰れるに相違無いと考えたから、極めて屈折したる梯子段を、ようやく降り、下の縁側迄出たが、その時は立つことも出来ず、身体はあたかも震い落さるるごとく、庭に落ちた・・」(p.343)幸い、第一報で国民新聞社は、無事であったが、その後の第2報では、火事で全焼したとあり、3日目に東京に向かう。
さらに、次男の死が追い打ちをかける。昭和6年には、長男太多雄も亡くす。「父を失って以来の予は、淋しき人であり、子を失って以来の予は、味気無き人である。」(p.354)長く生きることは、悲しいこととも言えるのだろうか。
「国民新聞」を立て直すことはできず、フリー・ジャーナリストとして、大阪毎日新聞、東京日日新聞で、筆を執った。
最後の印象記述は、5歳年下の弟、徳富蘆花臨終の記と、葬儀における弔文である。父を敬愛し、弟を友愛する思いが、ちぐはぐな兄弟の関係を生きながらも、臨終に立ち会い、弟を見送る心が語られる。思想や生き方において、もう少し弟と近い人間であったら、と思ったりする。立派な人間に違いないが、刊行中の「アジアの人物史」の中に登場しないのも、どこに目を向けるかによるのだと考える。


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