浅田次郎の自然への思い

「蒼穹の昴」を読んで、司馬遼太郎以来の歴史小説としての感動をもらったのは、15年くらい前になるか。その後、「終わらざる夏」で学校で教わらなかった太平洋戦争の終末を知り、「流人道中記」は新聞連載を毎日楽しみにして読んだ。
久しぶりの浅田次郎の「母の待つ里」は、NHKラジオ深夜便で、「自然を書きたかった。東京生まれでふるさとのない自分のあこがれでもある」というような本人の声を聴き、読みたくなったのだ。テーマは自然で、書く前にストーリはできていないのだとも。
架空の母の待つふるさとは、少々ファンタジックでもあるが、まさに現代において見直されるべき豊かさや幸せ感をうまく書くものだと、書き方に感心する。アグリツーリズモをさらに発展させた、大人にとってのデズニー・ワールドであると言ってよかろう。
ふるさとのない、独身会社社長の松永徹、定年を迎えて妻から離婚された室田精一、女性医師の古賀夏生、それぞれが、そんなファンタジーに酔うさまが、自然描写とともに繰り返される。場所が、どうやら遠野あたりを連想させることもあって、なんとも言えない親近感も感じた。
母が逝って8か月になるが、浅田次郎も母を思い浮かべつつ、あるいはいろいろな人の母を思う心を想像しつつ筆を走らせたのであろう。室田は、墓を母の待つ里に本気で移そうと思って妹に相談するが、相手にされない。「男にとって妹とは、何と厄介な存在なのだろう。叱ることも叩くこともできず、甘えられればどんな願いも聞き届けてやれねばならず、そのくせこっちが説教される段になると、誰に言われるより骨身にこたえる。」(p.73)妹を持つ兄の気持ちをこんなにずばりと書くか。
登場人物はみな、金銭的に豊かな、言ってみれば成功者なので、こんな贅沢を一時の夢としてでも過ごせることは、しょせん勝者の戯れと言えなくもないのであるが、作者自身の味わいたい夢であることも偽りはないのだと思う。
「幸福の基準は、けっして「便利」と「不便」ではない。少なくともこうした本物の天然にくるまれて生きることの、不幸であるはずはなかった。」(p.209)これは、古賀の弁。現代人、誰も共感しながらも、抜けられないでいる、今の社会の悲しさだ。
「母」が亡くなった報が入り、3人とも、そしてもう一人大阪から、通夜に駆けつける。それぞれが、「母」の思いに心を寄せるのである。思いは思いなので、仮想と現実が混じったものになる。そんな「母」や「ふるさと」をおしゃれに文章にできる、今までの浅田次郎とは別の面を味わわせてもらった。

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