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「花散る里の病棟」(帚木蓬生著)に思う

九州で4世代の医者の物語である。現代の医療制度の問題や福祉制度の問題を問い直すところもあって、そして何よりも、現代社会における医者という専門職の意味を考えさせられた。
野北保造(1885-1936)、宏一(Ⅰ921-2002)、伸二(1946-)、健(1984-)のそれぞれが、主人公で書かれる10の短編からなる。小説ではあるが、ほとんどドキュメンタリーでもある。ご本人のことを書かれているとしても、よくぞ曾祖父や祖父の記憶までが鮮烈に書けるものだと驚く。
圧巻は、「兵站病院1943-45年」における、フィリピンでの従軍記。つい今朝も、湯川れい子(86歳)がNHKの明日への言葉で、「ルソン島での戦いで戦死した、18歳年上の兄が、山下隊に居て、日本国民を守るために戦った」ことを語っていたが、災害時医療の難しさよりもはるかに厳しい戦時医療における医者の2年は、感動的である。その章では涙は出なかったが、「復員1947年」は、さらに感動的であった。コロナ禍での医療従事者の方へのご苦労様の比ではないが、それもある意味、医者としては変わらない。終章「パンデミック2019-21年」でも、そのことがよく伝わる。
面白かったのは、「病歴2003年」。これは、現代の医者が見た、戦国時代の武将の死因分析。落馬が起因となっている源頼朝と酒好きの上杉謙信の話である。地震学でも、古文書や古い文献から震源地やマグニチュードを推定しているが、同じように回りの人間の見た症状の記述がある程度あると、さまざまな病態の変化も読み取れて、今でも参考になる。
医者には、ヒポクラテスの誓いというのがあって、目の前に死にそうな人がいたら、助けるという使命をもっているが、現代でも本当にそれでよいのかということがある。大工にもバビロン法典(建てた家で人が死んだら大工は死刑)というのがあるが。特に「医療を老人が独占してはいけない」(p.160)ということの意味は大きい。犬や猫のように、自分で死が近づいていることをわかって受け入れるということが出来ない人間は、困ったものである。特に、武将の死についても、まわりが最善を尽くすが、一般の庶民はそこまでの治療を受けられない。日本は高額医療制度もあって、医療格差は少ないものの、アメリカなどでは、多くの庶民は治療費が払えないために命を落とす現実がある。
町医者とは、ホームドクターのことでもあると思う。自分の手に負えないことは、病院に委ねるという判断ができること。これは、建築の専門家にも通じる話で、建築の専門家(もしホームアーキテクトのようなものがあれば)は、専門的な判断ができる人であるし、それでも手に負えない場合は、仲間を紹介するという形で役割を果たせる。
医師国家試験に通るということは、医師としての専門的判断に責任がもてるということだと思うが、建築士の国家試験に通るということが、専門的判断に責任がもてるということになっているのか、いささか怪しいのだ。
宇沢弘文が、社会的共通資本の中で述べているように、医療制度という社会制度、建築制度という社会制度をもっともっと我々は考えなくてはいけない。制度は市場に任せるのではないということ。深読みをしすぎかもしれないが、帚木蓬生が中で訴えている問題提起を、読ませる小説だ。あっと驚く小説家に出会った。


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