愚管抄を読んだ
講談社文庫の大隅和雄訳(2012年)である。きっかけは、「アジアの人物史4」の中で、慈円(1155-1225)が大きく取り上げられていたことである。平安の世から武士の世に変わる中で、なんとなく中学や高校の歴史の授業では、悪者のように見えた藤原道長や、陰湿な感じの後白河上皇による院政のイメージを大きく変えたのは、アジアの人物史4であり、愚管抄がその根拠になっているようにも思えた。そして、何よりも900年も前の人間が、自分の視点で日本の歴史を書いたものを読んで見たかった。近年の徳富蘇峰のものは、いかにも大部過ぎる。
慈円が、藤原の摂関家の一隅(道長の6代目にあたる)にもあって、身びいきということもあるかもしれないが、なるべく客観的に捉えようとしていることは読み取れるのである。
巻第一から巻第七までで構成されている。巻第一と巻第二は皇帝年代記で神武天皇(前715-前585年)から第86代の今上天皇(後堀河)まで(85代、86代については加筆)、それぞれの天皇の時代をコンパクトに記している。地震や天変地異はあまり登場しない。そして、巻第四から、巻第六までが、政治について、天皇の役割について慈円なりの解説がなされ、巻第七は、まとめである。何が正しいかはわからないが、現実は神仏の采配によるので、誰が天皇になり、若く死んだか長く生きたかは、その後のことまで考えて肯定的に解釈している。そして、道理にかなうことこそが人の生きる道と何度も書くのである。
まずもって驚いたのは、伝説的な時代の天皇の寿命の長さである。神武天皇は在位76年、127歳で崩御。現代医学の、人間の生理的限界とされる寿命を、いまから1000年も前に感覚的にとらえていたのであろうか。120歳前後まで生きた天皇が何人もいる。そして、極めつけは第17代の仁徳天皇(257-399、110歳で崩御)までの6代にわたり、大臣として仕えたという竹内宿祢は280年生きたというのである。このあたりは、真実を書くつもりの慈円として、すなおに受け入れられたのか、疑わしい。あるいは、戸籍が無いとはいえ、200年生きたといわれるような人が、まわりにも居たのだろうか?
巻第二の第66代一条天皇(980-1011、32歳で崩御、在位25年)のところで、左大臣道長が登場する。このあたりの天皇の平均寿命はとても短い。年齢を見れば、とても天皇が自分で判断できるとは思われないので、すでに摂関政治の世であることがわかる。第79代六条天皇(1164-1176、13歳で崩御、在位3年)のところで、太政大臣平清盛が登場する。第82代後鳥羽天皇(在位15年)のところで右大将源頼朝が登場する。第84代順徳天皇(在位11年)に、慈円本人も登場し(愚管抄を書き始めていた)、「代々の天台座主の中に、前大僧正慈円が四回も任ぜられては辞任するのを発見するのであるが、何とも理解できないあきれるようなこと」(p.104)と書いている。自分で受け入れ、自分で辞めたのに、他人事であるのが面白い。
巻第三の冒頭では、人間の天皇の御代は百代と言われているが、すでに84代になっており、この後、武士の世としての日本がどうなるかの不安が、歴史を書き留めておく必要性を感じたと記している。これは、気候変動、核兵器の時代に、人類があと何年生きられるのか、という現代の問いに似ている。
天武天皇はすぐれた心の持主といい、女帝持統天皇の次の文武天皇の時に大宝という年号が定められ、現代まで絶えることなく続いている。文武天皇と藤原宮子の子が聖武天皇であり、「この時以来、大織冠(藤原鎌足)の子孫がすべての国王の御母となることになったのであった。」(p.134)この聖武天皇が、澤田瞳子の「月人壮人」に現れる、自らの血(山の天皇と海の藤原)に悩む天皇である。
最澄と空海の登場するところは平安の世で、「この桓武天皇以後、平安京を都としてからは、女帝というものがお立ちにならず、また天皇の孫への位が受けつがれるということもなく、父から子へ、兄から弟へとつづいて絶えることなく皇位が継承される一方、天皇の御母はまたすべて大織冠の末孫の大臣たちの娘で、国はしっかりと治まり、臣にとってもたいへんめでたいことであった。」(p.138)摂関政治は、すばらしい体制で、今の象徴天皇と内閣総理大臣の体制に似てはいるが、総理大臣の娘が皇后になることはないにせよ、大臣としてめでたいとはとても言えない。そして「醍醐天皇も、末の世になると上皇が政治を行われる院政がはじまるであろうなどとは、まだ思いも及ばれなかったのであろう。」(p.154)今も、総理大臣経験者の議員は少なくないが、自民党政権を見ていると、院政のようにも思われなくもない。
巻第三の終わりには、摂関家の大臣について書かれる。およそ御堂(道長)と言う方はと書きだし、さらに「堯・舜にも等しい」とまで書き、「大織冠に比べても劣らないくらい、正道にもとづいて事を行われ、・・・・・御堂の威光・威勢というのは、すべてそのまま天皇のご威光なのである。」(p.176)
巻第四は、一条天皇で始まる。大臣にはなれなかった四納言、斉(ただ)信(のぶ)・公任・俊(とし)賢(かた)・行成に触れ、中でも失脚した源高明の子、俊賢(960-1027)を評価している。「立派な人というものは、間違ったことを心の中で思うことがあってもすぐに反省し、また何のためにもならない悪い意図などに心を深く抱いたりしない。それでこそ、自分も他の人も穏やかが正道に従っているというのである。」(p.184)四納言の時代の政治が一番良かったというような表現も出ている。
後三条天皇の時代になると摂関政治も怪しくなってくる。道長の子の頼道(宇治殿)(992-1074)の評価はいまいちである。「宇治殿などは私心の多い人である。後三条天皇はこんなようにお考えになったのであろう。そこで太上天皇として世を治めよう」(p.195)こうして院政が始まった。さらに、「保元元年(1156)鳥羽法皇がお亡くなりになってのち、日本国はじまって以来の反乱ともいうべき事件が起こって、それ以後は武者の世になってしまったのである。」(p.221)(保元の乱)
巻第五は、平治の乱から始まる。後白河上皇に取り立てられた信西を、信頼・義朝が打倒した。義朝が四位に上がって、その子頼朝が右兵衛佐に任ぜられたのも、このときである。(p.251)その後、平家の繁栄、頼朝の旗挙げ、義仲の敗死、一の谷合戦、平家の滅亡と順に語られる。九郎義経の謀反については、京に居て、頼朝に背く心が生まれ、後白河法皇の宣旨を賜った(1185年)ものの、あっけなく頼朝の郎党に追い討ちをかけられ、陸奥に逃げ延びたが、泰衡に討ち取られた。
巻第六は、九条右大臣兼実から始まる。摂政任命の詔を受けるものの(1186年)、実質は鎌倉武士の世となって行った。後鳥羽上皇の時代になり東大寺・東寺・興福寺が再興され、時代が移る。
天台宗ということもあり、法然の浄土宗については、冷ややかに扱うのみ。ただ九条殿は念仏の教えを信じて出家し、法然の流罪を嘆いて亡くなったと。(p.341)
鎌倉の政争は、昨年の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」に描かれた図が、比企・梶原の誅殺や実朝の右大臣昇任、暗殺まで解説される。
巻第七では、改めて日本のあり方を思索している。若者が学問をしなくなったと。歴史の段階を辿って行って、「今はもう道理というものはなくなってしまったのであろうか」(p.382)と嘆く。
56代清和天皇(850-881)から順に76代後冷泉天皇(1025-68)までの在位と没年を改めて振り返り、なんだったのだろうと。上皇の政治を評価しながらも「天皇がこうした武士を悪いとお思いになっても、武士より優れたものがでてくるはずはない」と言い切っている。承久の乱を招いた後鳥羽上皇の心得違いを批判し、過去に比べて、人材なき末の世を嘆いている。最後に自問自答を書いては、それにしても官の多さが問題だと、さらに悩みを深めて終わっている。
権力者であっても、自ら富むことを優先した者と人々が豊かになることを心掛けた者の違いが歴然とあることを慈円なりの情報でずばりと書いていることが面白い。それが、この後の政治に生かされることを願っての遺言でもあるのだと感じた。とにかく一読はしたのであるが、あまりに多くの登場人物ゆえ頭が混乱したまま読み飛ばしたところも少なくないと思う。部分部分で、じっくり読むと、また発見があるかもしれない。
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