「内発的発展とは何か」川勝平太+鶴見和子 に思う

鶴見和子の「内発的発展」について、もう少し知りたいと思ってアマゾンを探し、手ごろそうなこの本を見つけた。2002年の2日間の対談をまとめたもの、和子の没後2年たった2008年に初版、2017年に新版が出ている。
川勝平太は、著作集最終巻「鶴見和子曼荼羅Ⅸ環の巻」の解説(1999)を、藤原書店の藤原良雄氏の計らいで書いたことがきっかけで、対談の機会が生まれたことを、ことのほか嬉しく思いこの書が生まれた。
最近では、2019年5月に、黒川創著の「鶴見俊輔伝」を読み、また2020年11月に和子の妹の内山章子の「看取りの人生」を読んで、そのたびに鶴見和子に思いを馳せた。南方熊楠や石牟礼道子との共感も思い浮かぶ。まずは冒頭に、上記川勝の解説が採録されており、鶴見和子曼荼羅を読み解いている。和子本人を感激させたその解説は、それで全てを伝えているとも言える。
対談は、それを読み解いて言葉を重ねたものと言ってよい。7つの場に分けているもので、同じことをさまざまな人々を登場させ、少しずつ言葉を変えて二人で納得している。キーワードは、南方熊楠の造語らしい「萃点」であり、何度も登場する。それを第1場では、「方法としての類推」と呼んでいる。和子がプリンストンで学んだマルクス主義も近代化論もキリスト教文明の上に立つ同根。それが南方曼荼羅に出会って開眼したという。車椅子の老いの身になって「人生ってほんとにすばらしいと思う。むだなんか一つもない。・・・成功したことより失敗したことの方が、いろいろと花をさかせるのよ。」(68p)と言う。
第2場は「地域から地球へ」単位は、国や民族ではなく、むしろ地域だと。川勝が今西錦司を語り、和子は南方と柳田國男を語る。第3場は、「新しい学問に向けて」二人で、「何が真であるか、何が善であるかでは不十分で、美学がないといけない」(103p)と。これは、もちろん「建築とは何か」にも通じるところ。
第4場は「萃点の時空」では、因果律は時間軸、類縁は空間的関係と説き、それらの交わるところが萃点。生きているものがあって初めて時間と空間があると言って、和子に「カントを超えるじゃないの」(132p)と言わせる。第5場は「創造の秘密」と題して、感じることが創造の世界であり、宮沢賢治の「農民芸術概論」の世界であると。伊谷純一郎の「サル学」にも通じると。第6場「生かし生かされる」では、賢治の「よだかの星」が登場する。和子がウグイスの死を見て崇高な美を歌にしたことから、またカントを引く。純粋理性批判は理性、実践理性批判は道徳、判断力批判が美を扱っていると。確かに小田部の「美学」(この3月に読んだ)で語られていたことは、崇高さかもしれない。
第7場、「萃点としての人々」では、スピノザ、ウェーバーのあとに、長谷川真理子の「おばあさん仮説」が興味深く紹介される。10万年のホモサピエンスの歴史の中で、たかだか2500年の歴史でしかない父系社会が、これから母系社会に変わる兆しありという。それは、川勝が鶴見和子との対談の中での実感でもあり、生命誌の中村桂子にもつながる。
最後に、「志をつぐ」と題して川勝は追悼の意を込めてまとめを書き、鶴見和子の死を意識しての数々の歌を紹介し、薬師如来に例える。物理学者の柳瀬睦男神父と弟の鶴見俊輔の日光・月光菩薩に支えられる、三者の美しい相を伝える。川勝平太の語る「和子曼荼羅」を全て理解できたわけではとてもないが、「類推」が自立的生き方のひとつの軸にあることを言われると、大枠としての内発的発展が見えるように思えた。まだまだ著作も対談も膨大な数がある中で、次はどこから攻めるか。

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