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ambiguity tolerance

久しぶりに ambiguity tolerance (曖昧さに耐える)という言葉を聞いた。英語教師仲間のライングループで発信されていた。ambiguity tolerance とは、分からない事、もやっとしたことに、きっちりとした1つの正解を求めず「曖昧であることに寛容になれ」という意味である。

4年ほど前、私が ALL in ENGLISH で授業をしようと思いながらも、1つの正解や和訳を求める生徒たちにどう対応すれば良いのか、と悩んでいた時期に、ある大学のO先生から聞いた言葉である。

思い返してみれば、私が英語を習得してきた過程を考えてみてもそうである。これまでどれだけのambiguityに耐えてきただろうか。

18歳の時、イギリスはスコットランドの老人ホームでボランティア活動をしていた時なんて、まさにそうであった。初の海外長期滞在のはじめの数ヶ月だったことから私のリスニング力が今よりも低かったことに加え、スコットランド訛りも分かりにくく、ご老人の方の求めていることが、言葉だけでは分からなかった。「きっとこういうことかなあ?」、「多分こういうことだろう・・?」とそこに1つの正解を求めるのではなく、自分で考えながら「こうかなあ・・??」と曖昧であるけれども、それに耐え、推測し、曖昧さに寛容になり、拘りすぎなかった。(というか、拘るとその先へ進めなかった。)

大切なことは、拘りすぎず、次に続けていくことである。

語学習得には特にamgibuity toleranceの力が必要だと言われる。それは言語は文化によって理解しにくいこともあるからだ。
「こうでもない?」「ああでもない?」と思いながら推測しながら進んでいくことが大切なのである。

ネイティブとの会話においても、英語のリスニングや長文においても、一語一句確実に分からなくとも、全体として内容把握をしていれば十分ということもある。

それは、まさに思考力を養う学習においてもそうだと思う。

知識技能だけを養うのであれば、1つの正解だけを求めて、そのために試行錯誤すれば良い。正確に暗記し、一語一句正しく書くことなどに時間を費やせば良い。
だけど、新しいものを創りあげていく過程では、違う。
新しいものを創造するときには、正解・不正解はない。
何を正解だと自分は思うか、間違っているかもしれないけれど、未来のことも確実には分からないけれど、そして他者が私に求めることも100%分かっている訳ではないけれど・・・だから・・・ambiguity tolerance、曖昧さに寛容になりながら、進んでいく方が良いのだと思う。

久しぶりに聞いたambiguity toleranceという言葉。決して新しい言葉ではないけれど、こういった時代だからこそ、より大切な考え方だと再確認した。

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